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高松高等裁判所 昭和38年(う)404号 判決 1966年3月31日

控訴人 検察官

被告人 大岡正 外一名

主文

原判決を破棄する。

本件を徳島地方裁判所に差戻す。

理由

本件控訴の趣意は、記録に綴つてある徳島地方検察庁検察官検事佐藤直作成名義の控訴趣意書(第一回公判期日において控訴趣意書訂正書記載のとおり訂正)、高松高等検察庁検察官検事亀岡忠彰作成名義の、昭和三九年一〇月三日付検察官の意見書(第一回公判期日において検察官意見書の正誤表記載のとおり訂正)、同年一一月一二日付釈明書、同年一一月二八日付意見書、昭和四〇年二月三日付釈明書(第五回公判期日において、三行目に「両製」とあるを「再製」と、六行目に「工業第二燐酸ソーダ」とあるを「工業用第二燐酸ソーダ」とそれぞれ訂正)、同日付「控訴趣意のふえんについて」と題する書面(第六回公判期日において、同年三月一五日付「誤謬訂正について」と題する書面記載のとおり訂正)及び同年三月一五日付釈明書(第七回公判期日において、同高等検察庁検察官検事井下治幸作成名義の同年五月一一日付釈明書により、上記釈明書の記載の趣旨をさらに釈明)、並びに同高等検察庁検察官検事村上惣一作成名義の同年九月二四日付釈明書及び同年一一月五日付意見書(この意見書を以下「控訴趣意補充書」と略称する)記載のとおりであり、これに対する答弁は、被告人両名の弁護人海野普吉、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の、同小玉治行(同年二月二八日当裁判所受理の辞任届により辞任)、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の各答弁書、被告人両名の弁護人海野普吉、同小玉治行、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の検察官の意見書に対する弁護人の反駁書及び「検察官の釈明に対する意見」と題する書面、被告人両名の弁護人海野普吉作成の昭和三九年一二月二二日付求釈明書、被告人両名の弁護人海野普吉、同松山一忠、同土屋豊、同坂上寿夫共同作成名義の、昭和四〇年八月七日付求釈明書(第八回公判期日において、九頁七行目に「その取消し、変更」とあるを「その取消、撤回」と、一一頁三行目に「五月一一日」とあるを「五月一一日付」と、一五頁一二行目に「特殊物質以外にも」とあるを「特殊物質以外に」とそれぞれ訂正)、「公訴事実、訴因並びに訴因についての検察官の釈明に対する弁護人の意見」と題する書面、最終陳述書及び補足陳述書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

右控訴趣意に対し、当裁判所は、記録を精査し、当審における事実取調の結果をも参酌して、次のとおり判断する。

(本判決の用語例)

(一)  原判決の用いた略語は、控訴趣意書及び答弁書等にも援用せられているので、本判決においてもそのままこれを踏襲することにした。

(二)  単に「証人何某」と記載してあるのは、すべて「原審証人何某」と記載すべきを省略して記載したのであつて、当審で取調べた証人(鑑定人)については、「当審証人(鑑定人)何某」と記載した。

(三)  証人の氏名下の括弧内の職業は、大部分当該証人が尋問を受けた当時の職業であり、証人尋問当時証言事項と関係のない職業に従事している者については、概ね証言事項に関連する職業を「元何々」という形式で表現することとした。

(四)  証人氏名下の括弧内の数字は、記録の冊数番号及び丁数の表示であつて、多くは当該証人尋問調書の冒頭の丁数を記載したものである。なかには特に関連のある供述記載部分の丁数を掲記した場合もあるが、これとてもその部分に限定する趣旨ではない。原審における同一証人が二回以上取調を受けている場合の当該証人の尋問調書の特定方法は、公判回数や証人尋問期日の年月日によらないで、もつぱら記録の冊数番号と丁数によることにした。(なお、原判決挙示の各証人尋問調書等に冠せられている年月日は、いずれも当該証人を取調べた日の年月日ではなく、文字どおり調書作成日付であるから念のため)

(五)  「証何号」と記載してあるのは、すべて、当裁判所昭和三九年押第九三号(徳島地方裁判所昭和三一年押第四六号)の枝番号のみの表示である。

第一公訴事実について。

原判決は、第一章検察官主張の公訴事実の第一として、本件公訴事実の要旨を詳細摘示しているのであるが、原審は、昭和三七年一〇月二〇日公判期日外において検察官に対し、被告人両名の監督上の過失責任についての訴因を追加することを命じ、第五四回公判期日において、検察官の同年一〇月二四日付訴因変更請求書記載のとおり、訴因の変更を許可しているのにかかわらず、この部分は公訴事実の要旨摘示のうちから脱落しており、このほかになお公訴事実の要旨がそのまま忠実に表現せられていないのではないかとの疑の存する部分も見受けられるので、同年三月二四日付及び同年一〇月二四日付各訴因変更請求書に基づき、改めてここに公訴事実の全文を摘示することとする。

(公訴事実)

被告人大岡正は、昭和二六年一月一日より同三〇年五月一日迄の間、乳幼児用ドライミルク等の製造販売を業とする森永乳業株式会社(東京都港区芝田町一の一二所在)徳島工場(徳島県名西郡石井町字高原所在)の工場長として、さらにその翌日から同月一六日新徳島工場長山口正一と事務引継をなす迄の間は、実質上工場長として、被告人小山孝雄は、同二七年四月一日より同工場の製造課長として、前記ドライミルクの製造及びこれに要する原材料の購入等の業務に従事してきたものであるが、被告人等は、右ドライミルクの製造にあたり、安定剤として牛乳に工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤を購入し、混和使用していたところ、右ドライミルクは、一般人の飲用に供するほか、特に身体未熟で抵抗力の弱い乳幼児の飲用に供するものであるから、被告人等としては、人体に有害な物質の混入を完全に抑止すべき業務上の注意義務があるとともに、従業員をして抑止させるよう監督すべき業務上の注意義務があり、殊に右薬剤が本来食品に使用される性質のものではなく、主として工業用に使用される関係上、含有物質の種類、分量等の規格がなく、品質の保証もなくその成分も詳らかでないばかりでなく、往々にして人体に有害な砒素その他の物質を多量に含有する粗悪品のある場合もあるから、その購入にあたつては、あらかじめ局方品、試薬品など成分規格の明らかな薬剤を指定して注文し、或いは製造元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附させるなどして、人体に有害な粗悪品の入荷を防止するとともに、その使用にあたつても、薬剤の色、結晶状態、夾雑物の有無などを十分に検査し、特に成分規格の明らかでない薬剤については厳密な化学的検査を行ない、無害なものであることを確認すべき業務上の注意義務があるとともに、従業員をして確認させるよう監督すべき業務上の注意義務があるのに、不注意にもそのいずれをも怠り、右工場において

一  被告人両名は、昭和三〇年四月一三日より同年五月三一日迄の間前記成分規格のあるものを注文する等のことをなさず、漫然、徳島市幸町二丁目三五番地協和産業株式会社より、日本軽金属株式会社清水工場(清水市北三保四〇二五の一所在)産出、松野製薬株式会社(大阪市東区平野町二丁目所在)再製にかかる工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤四箱(合計一六〇瓩)を購入し、その頃うち三箱(合計一二〇瓩)の使用にあたり、右薬剤には人体に害を与える程度の砒素その他の有害物質を含有していないものと軽信し、前記化学的検査等をなすことなく、右薬剤を安定剤として牛乳に混和し、乳幼児用ドライミルク合計四〇二、五七六缶(一缶四五〇瓦入り)を自らもしくはその監督下に製造し

二  被告人小山孝雄は、昭和三〇年六月一日より同年八月二三日迄の間前同様成分規格のあるものを注文する等のことをなさず、前記協和産業株式会社より右同様の工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤一箱(五〇瓩)を購入し、その頃これを右一記載の四箱のうち未使用の一箱とともに(合計二箱合計九〇瓩)使用するにあたり、前同様化学的検査等をなすことなく、定定剤として牛乳に混和し、乳幼児用ドライミルク合計四四三、九五二缶(一缶四五〇瓦入り)を自らもしくはその監督下に製造したが、右購入使用した薬剤に人体に害を与える程度の砒素を含有していたため、その頃森永商事株式会社を介して徳島市その他において販売された右乳幼児用ドライミルクのうち、七缶ないし二〇缶を飲用した徳島県麻植郡鴨島町上下島居住の猪井アイ子(昭和三〇年五月六日生)を同年八月二六日同町鴨島糸田川病院において、九缶以上を飲用した同県三好郡三庄村中庄一〇八三番地居住の林啓(昭和二九年九月一六日生)を昭和三〇年八月二〇日右住居地において、右ドライミルク飲用に基づく慢性砒素中毒によりそれぞれ死亡するに至らせたほか、原判決添附の別表第一及び同第二記載の者らをして、右各別表記載のとおり、それぞれ右中毒により死亡させ或いは中毒症に罹らせて傷害を与えたものである。

第二控訴趣意第一点(控訴趣意補充書第一の一及び第二)について。

一  第二燐酸ソーダの主たる用途、製造方法及びその性質等から考えて、人体に有害な程度の砒素を含有するものも薬品業界に出廻る虞があるとの論旨について。

1  所論は、縷々述べているが要するに、工業用第二燐酸ソーダは、砒素の含有量の多寡には関係なく、主として清缶剤、洗滌剤として使用されるものであつて、これを食品製造の際添加物として使用するようなことは極めて変則的用法であるから、工業用第二燐酸ソーダの製造業者及び販売業者でさえ、それが食品製造の際添加物として使用されるというようなことは全く予想もしていなかつたのであり、元来、第二燐酸ソーダという薬剤の原料となる燐鉱石とか硫化鉱とかの中には砒素が含有されており、この砒素が不純物として第二燐酸ソーダの中に残るのであるが、第二燐酸ソーダの製造業者が、これを製造するにあたつては、その清缶剤、洗滌剤としての効能を高める工夫はしても、本来の用途には何らの関係もない食品衛生的配慮を払わないことも至極当然のことであるから、製造工程の管理いかんによつては、人体に有害な、重量比で〇・〇三%(以下単に%だけを示す場合はすべて重量比である)を超える砒素を含有する第二燐酸ソーダが製造され、これが薬品業界に出廻る虞もあるわけであるにかかわらず、原判決が、人体に有害な程度の砒素を含有する第二燐酸ソーダが薬品業界において製造されることはなく、したがつて、そのような第二燐酸ソーダが業界に出廻る虞はないと判断したのは事実誤認である、というのである。

2  よつて、按ずるに、証人山内幸雄(日産化学工業株式会社名古屋工場長、昭和三二年八月までは同会社王子工場技術第二部長、二三の一〇八五〇)、同水木義治(米山化学工業株式会社社長、七の三三一四)、同横山俊男(御幣島化学工場経営者、三の一〇七四)、同松野隆信(松野製薬株式会社社長、一二の五六〇七、一四の六三六四)、同本田直栄(米山化学工業株式会社製薬部長兼同会社足利工場長、二の九四七、三五の一五八八三)、同兵頭二郎(光化成工業株式会社常務取締役、六の二七四一)及び同渡辺武勇(株式会社小西安兵衛商店販売課員、二〇の九一七一、「渡辺武男」とあるは「渡辺武勇」の誤記である)らは、第二燐酸ソーダは、主として清缶剤及び洗滌剤等の原料として用いられるものであつて、食品製造にあたつて、これに添加使用されるというようなことは考えていなかつた旨それぞれ供述していることが認められる。〔もつとも、前記証人水木義治は、右のような供述をしているにかかわらず、他方では、第二燐酸ソーダは、ハムにも塗られるし、皿洗い等にも用いられる旨供述しており、論旨指摘の証人藤野七郎(日産化学工業株式会社王子工場薬品課長、二二の一〇四六四は、所論のような供述をしているとは認められない。〕しかし、一方、証人田村正(田村製薬株式会社常務取締役、七の三二二四)、同新川正明(ラサ工業株式会社大阪工場化工課長、七の三二五〇)、同森正典(朝日製薬株式会社専務取締役、一九の八七九〇)及び同白子敏(日本理化学薬品株式会社営業部長、一九の八七三三)らは、いずれも第二燐酸ソーダが食品加工業に使用されることがある旨それぞれ供述しているのである。

前記各証人、証人霜永忠平(工業技術院標準部繊維化学規格課長、九〇三八八二)、同弓削俊暢(日本工化株式会社社長、七の三〇八六)、同住繁蔵(南静化学工業株式会社代表取締役、八の三七三七)、同檜次(株式会社寿屋技術課員、一九の八九一八)、同下岡辰夫(森永乳業株式会社福島工場製造課長、一七の七六七五、同七八二六)、同毒島豊太郎(筑波乳業株式会社取締役、二〇の九四三五)の各尋問調書及び押収にかかる注解第六改正日本薬局方(証五四号)を綜合すると、次の各事実が認められる。

(一) 第二燐酸ソーダの大部分は、清缶剤及び洗滌剤等の原料に用いられるのであり、ときには亜鉛メッキ(砒素の含有量が多いと使用できない)や水素イオンの濃度調節等(学問的に必要なのは緩衝液としてである)に用いられる。食品製造加工の際の添加物等としては、製糖、清凉飲料水(プレンソーダのミネラル等として)、酒の醸造、酵母(イースト)の製造、ふくらし粉(ベーキングパウダー)及びかまぼこ、はんぺん等の練製品にも用いられ、ことに、乳製品では、無糖練乳、チーズ及び乳児用調整粉乳製造の際、安定剤として原料牛乳に添加使用されていたが、食品用としての使用量は、清缶剤等の原料用に比較すると極く少なかつたのである。なお、医薬品としては、下剤として用いられる。

(二) 昭和三〇年当時において、我が国の第二燐酸ソーダ製造業者のうち、一部分の者は、第二燐酸ソーダが食品に添加されることを知つていたけれども、相当多数の者が、右の事情を知らなかつたことが窺われるのである。そして、第二燐酸ソーダの原料となる燐鉱石や硫化鉱の中に砒素を含んでいることは事実であるが、しかし、後記第二の一の6の(二)の(1) で説示するように、第二燐酸ソーダ中の砒素含有量は極めて微量であつたため、第二燐酸ソーダ製造業者は、これを製造するにあたり、砒素の含有量については、あまり念頭に置いていなかつたのが、一般の常識であつた。また、第二燐酸ソーダ製造業者の大部分は、その製造にかかる無規格品の工業用第二燐酸ソーダが、食品添加物として使用されるというようなことは、まず考えていなかつたのである。

右に認定した各事実及び前記2の冒頭以下掲記の各証人の供述記載を綜合すると、本件発生以前において、第二燐酸ソーダの製造業者が、第二燐酸ソーダことに工業用第二燐酸ソーダの製造にあたつて、食品衛生的配慮を払わなかつたであろうことも容易にうなずけるのであるが、しかし、記録を精査しても、右の事情が第二燐酸ソーダの製造に影響を及ぼし、そのため特に砒素を多量に含有する第二燐酸ソーダが製造されたことを認めるに足る資料はない。

3  原判決第二章第三の四の1の冒頭、同章第一の二の5の(一)及び(二)に掲げる各証拠、証人伊藤恭三(新日本金属化学株式会社検査課長兼生産課長代理)の各尋問調書)二の五四八、七の三〇七一)、同岡沢富雄(日本軽金属株式会社清水工場業務課長)の尋問調書(六の二七七一)、前記証人松野隆信の各尋問調書(一二の五六〇七、一四の六三六四)、証人今津定(協和産業株式会社社長)の各尋問調書(一三の六〇四〇、一五の六八一六)、同井上邦夫(元本件工場事務課資材係)の尋問調書(一六の七三〇八)、同梶原一男(栗田工業株式会社取締役)の尋問調書(七の二九二〇)、同成岡茂(松林薬品工業株式会社社員)の尋問調書(六の二八〇一)並びに同槌田龍太郎(大阪大学教授)の尋問調書(三の一二九一)を綜合すると次の各事実が認められる。

(一) 第二燐酸ソーダの製法は、化学上では、第二燐酸ソーダという化合物を構成する各元素を寄せ集めればできるわけであるし、次に説明する以外の方法も考えられているようであるが、しかし、工業的には、昭和三〇年当時まで我が国の薬品業界において、「燐酸ソーダ」という名称の下に製造され(かつ取引され)ていた薬剤は、すべて燐酸をソーダ灰もしくは苛性ソーダで中和させるという方法で製造されていた(我が国における燐酸及び第一、第二、第三燐酸ソーダの全生産量は、昭和二九年には約一一九七屯位、昭和三〇年には約一四四一屯位であつた。記録六の二六一一丁参照)。右製造方法の原理は、大規模な製造工場であろうと、小規模ないわゆる町工場程度の製造工場であろうと変りはないのである。しかも、薬品業界において普通一般に行なわれている右製造方法は、薬剤としては比較的低廉なコストで製造される方法であつたため、他の特殊な製造方法を発見することは、むしろ困難であつたとさえいえるのである。

ところで、燐酸ソーダの原料となる燐酸の製法には、燐鉱石を電気炉でコークス還元して作る方法(乾式燐酸)と、燐鉱石に硫酸を加えこれによつて生成される石膏を遊離して燐酸を製造する方法(湿式燐酸)との二方法があり、さらに、硫化鉱を原料とする右硫酸の製造方法にも接触式と鉛室式との二方法があるが、右燐鉱石と硫化鉱との中には砒素を含有しているところ、その砒素は、燐酸及び燐酸ソーダの製造工程ことに精製工程において相当程度除却されるのであるが、完全に脱砒されないため、でき上つた燐酸ソーダ中には極く微量の砒素が不純物として残留することになるのである。右にいう燐酸ソーダというのは、第一、第二、第三燐酸ソーダの総称である。そして、燐酸ソーダの製造業者は、できるだけ純度の高い燐酸ソーダ、すなわち、不純物の少ない燐酸ソーダを製造することを意図していたのであり、消費者側においても純度の高い燐酸ソーダを希望していたのであるから、燐酸ソーダ中の砒素含有率も、他の不純物とともに順次減少する傾向にこそあれ、それが増加する傾向の如きは全くなかつたというべきである。

湿式燐酸の方が乾式燐酸に比して不純物(砒素を含む)の混入率が高かつたのであるが、昭和三〇年当時我が国において湿式燐酸を製造していた工場は、日産化学工業株式会社、東北肥料株式会社、住友化学工業株式会社、日本窒素肥料株式会社、小野田肥料株式会社及び大洋化学工業株式会社等(但し、昭和二八年三月頃以降昭和三〇年二月頃までの間)の数社位に過ぎなかつたし、右各会社によつて製造された燐酸そのものが外販されたことはなく、また、この燐酸を原料として製造された燐酸ソーダも、大部分は自家消費に廻されたのであつて、外販されたものは少なかつたのである。さらに、小規模な製造工場において、湿式燐酸を原料とする燐酸ソーダが製造されていた事実は認められないのであつて、いずれも市販されている乾式燐酸を原料として製造されていたことが窺われるのである。

(二) 昭和三〇年当時、我が国の薬品業界における燐酸ソーダの製造方法は、本件記録に現われたところでは、右(一)に記載した方法だけに限定されていたといつて過言でないが、ただ、認められる例外の方法は、次の各場合に限られるのである。

(1)  三光化学工業株式会社において、昭和二八年五月頃から、臭素、赤燐及びメタノールを原料として、メチルブロマイドを製造する際に生じた残留液(燐酸、亜燐酸及びメタノール水)に硝酸ソーダを添加して亜燐酸を燐酸に変え、この残留液を濾過し、これに適量の苛性ソーダを添加する方法により、月産約三屯位の第三燐酸ソーダを製造し、製造過程が通常の方法と異なるので、その用途を清缶剤の原料に限定して、日新産業株式会社、ロック化学(正式の名称不明)及び三和化学薬品株式会社のみに販売した(広島県三原市所在の久野島化学工業株式会社においても、一時右と同一方法により第三燐酸ソーダが製造されたことが窺われる)のであるが、こうして製造された第三燐酸ソーダの砒素含有率も〇・〇〇二%以下であるに過ぎない。(記録六の二七五九丁以下参照)

(2)  新日本金属化学株式会社において、昭和三〇年頃、弗化セリウムを製造する過程で、モナサイドサンド(通称モナズ石)を微粉に粉砕して苛性ソーダとともに加熱するときに生ずる物質を濃縮して第三燐酸ソーダを作り出していたが、これは全部同会社内において自家消費してしまつたのであり、自家消費であつたため純度は八〇%位であつたが、精製すれば勿論純度率は向上するのであり、砒素含有率も〇・〇〇〇八%程度に過ぎなかつたのである。

(3)  次に説示する各物質が、例外としても、第二燐酸ソーダと称し得るか否かは問題であるが、第二燐酸ソーダと称して取引された事実のあることは明らかであるので、一応ここで説明することとする。

(イ) 静岡県清水市所在の日本軽金属株式会社清水工場において、ボーキサイトからアルミナを製造するとき輸送管等の内部に付着する物質(以下「日軽金産出物」と略称する)が除去され、不純物である右物質が、同工場から、順次、新日本金属化学株式会社、丸安産業株式会社を経て、松野製薬株式会社(以下「松野製薬」と略称する。原判決三丁裏六行目参照)に譲渡された。松野製薬においては、右日軽金産出物を「燐酸ソーダ」という名称で売出そうと考え、生駒薬化学工業株式会社をして、原判決説示のような方法で、右物質の脱色をさせた。

右のように、日軽金属産出物を脱色した物質が、原判決のいう「本件物質」(原判決一五丁裏四行目参照)である。

(ロ) 松野製薬においては、第二燐酸ソーダの注文のあつた徳島市幸町二丁目三五番地所在の協和産業株式会社(以下「協和」と略称する。原判決三丁裏九行目参照)に対し、(a) 昭和三〇年四月一二日頃、本件物質八〇瓩(木箱入り二箱、一箱の容量四〇瓩)を、一瓩の単価八五円で、(b) 同年同月二八日頃、右と同量同箱数の本件物質を同単価で、(c) 同年七月二六日頃、本件物質一〇〇瓩(木箱入り二箱、一箱の容量五〇瓩)を、一瓩の単価七五円で、いずれも第二燐酸ソーダと称して、それぞれ売渡し、協和においては、第二燐酸ソーダの発注をした徳島県名西郡石井町高原所在の森永乳業株式会社徳島工場(以下「本件工場」という。原判決二丁表九行目参照)に対し、右(a) 、(b) 及び(c) の各本件物質を、そのまま三回に亘り、原判決別表第四の第一〇、第一一、第一三回各取引記載のとおり、売渡したのであつて、右合計二六〇瓩の各本件物質が、原判決のいう「松野製剤」(原判決一六丁裏一三行目参照)である。

(ハ) さらに、松野製薬は、右(ロ)に記載した外、昭和三〇年四月以降同年八月までの間において、共和理化学株式会社、日本耐熱材株式会社、日本保缶化学株式会社及び山本商店等十数社に対し、本件物質を第二もしくは第三燐酸ソーダと称して売渡したのである。

(4)  日本軽金属株式会社清水工場は、松林薬品工業株式会社に対し、昭和二九年九月頃から同年一〇月頃にかけて、数回に亘り、日軽金産出物合計五〇屯を、代金一屯当り八、〇〇〇円で売渡し、同会社は、右と同じ頃、南静化学工業株式会社に対し、右産出物全部を代金一屯当り一五、二〇〇円で売却し、同会社は、これに他の原料及び正常な第一燐酸ソーダ約三%位を添加して清缶剤一〇四屯を製造して、これを全部日本国有鉄道に納入したのであるが、右清缶剤中に約一・五%ないし一・九%の砒素が含有していたことが判明したため、問題化し返品されたのである。

4  (一) (1)  証人草薙碩夫(日産化学工業株式会社肥料課長)が論旨指摘(控訴趣意補充書第一の一の(四)の(5) 参照)のような各供述(六の二六三四ないし二六三六、二六三八、二六四〇、二六四一、二六四五、二六四六)をし、前記証人山内幸雄が論旨指摘(右控訴趣意補充書同項参照)のような各供述(二三の一〇八六一ないし一〇八七九、一〇九〇二、一〇九〇三、一〇九一九ないし一〇九二九、一〇九三五、一〇九三六)をしていることは所論のとおりである。なるほど、同証人らの各供述記載によると、昭和二七年頃日産化学工業株式会社王子工場において製造していた工業用第二燐酸ソーダは、鉛室式硫酸を用いる方法で作つた湿式燐酸を原料として製造されていたのであり(この点について、原判決が、第二章第三の四の1の(二)の(2) のロの項において、鉛室式製造方法による硫酸が、昭和三〇年までの間に第二燐酸ソーダの原料として用いられたと断定することはできない、と判断したのは事実を誤認したというべきである)、昭和二七年四月一一日に製造された第二燐酸ソーダ中に亜砒酸が〇・〇二五%、同年同月一二日及び一三日に製造された第二燐酸ソーダ中には亜砒酸が〇・〇三%それぞれ含まれていたことは所論のとおりである。しかし、右のように、当時第二燐酸ソーダの製造業者間において一般に製造されていた第二燐酸ソーダよりも、著しく高率の亜砒酸を含有する第二燐酸ソーダが製造されたのは、右証人山内幸雄の供述記載(二三の一〇九一九ないし一〇九二九)によると、同工場においては、昭和二七年二月頃から継続して工業用第二燐酸ソーダの製造をしていたのであるが、同年四月一一日頃に至り、急に収率(生産量)が五〇%位に落ちたうえ、結晶も濾過の困難な小さい粒になつたので、調査すると、結局、第二燐酸ソーダの母液を精製しないで連続使用していたため、それに不純物がたまつて汚染し、老化現象を生じたのが原因であつたことが判明したので、母液を精製した結果、収率及び結晶も従前の状態に回復したのであり、そして、収率が低下し結晶の粒が小さかつたのは、同年四月一一日ないし一三日の三日間に製造されたものであつて、これは、すべて再製され、従前製造されていた第二燐酸ソーダと同様の品質のものとされたのであり、したがつて、右異常な状況の下で製造された亜砒酸の含有率の高い第二燐酸ソーダは、市場には全く出廻らなかつたことが認められるのである。

(2)  右の各事実から判断すると、昭和二七年四月一一日ないし同月一三日の間に前記日産化学工業株式会社王子工場において製造された第二燐酸ソーダは、当時同工場における第二燐酸ソーダ製造工程中の母液の老化現象が極限に達した状況下で製造されたものであることが窺われるから、論旨のいうように、母液の汚染、老化現象が継続的使用のため徐々に惹起されたものであるとしても、同年四月一〇日までは、収率の低下も顕著でなく、結晶の粒子の細小化も同工場の従業員に認識されなかつたのであるから、同年四月一〇日以前においても、同工場において、亜砒酸含有量が〇・〇二五%ないし〇・〇三%の第二燐酸ソーダが製造されて市場に出廻つていたとなすのは早計であつて、むしろ、同年二月第二燐酸ソーダの製造を再開した頃から製造されていたものに近い品質の第二燐酸ソーダが生産されていたと認めるのが相当であつて、その砒素含有率は〇・〇〇x%位であつたことが認められるのであり、尠なくとも、同年四月一一日に生産された亜砒酸含有率〇・〇二五%のものに比して、亜比酸含有率が右と同等かそれ以下のものが生産されていたと認めるのが相当である。

(二) 論旨は、右当時前記日産化学工業株式会社王子工場において生産されていた工業用第二燐酸ソーダの砒素含有量は、数字的には人体有害量といわれる〇・〇三%には達しないのであるが、この場合、およそ〇・〇三%であるから人体に有害であり、〇・〇二九%であるなら無害というように数学的に割り切れるものではないというのである。

よつて、按ずるに、原判決が、第二章第二の各項に挙示する関係各証拠によると、同章第二の一ないし四の各項において認定する各事実は、いずれもこれを肯認できるのであり、かつ、右各事実に基づいて認定した同章第三の二の安定剤無害量の項において判示する事実も首肯できるのである。(但し、原判決二七丁裏二行目及び同三二丁裏一一行目にそれぞれ「別表第七」とあるのは、いずれも、「別表第八」の誤記である)。すなわち、乳児用調整粉乳の製造にあたり、原料牛乳一〇、〇〇〇瓦に対し一瓦の割合(〇・〇一%)の第二燐酸ソーダを安定剤として添加するとき、よつて製造される右粉乳中の亜砒酸含有率(最も多量に、かつ、最も頻繁にこれを飲用する生後八ケ月までの人工栄養乳児にも無害であるような)(生後八ケ月の乳児の一日の粉乳摂取量は約一五五瓦である)を一〇〇万分の〇・三未満にとどめるためには、第二燐酸ソーダ中の砒素含有率が〇・〇三%以下のものを使用しなければならないということになるわけである。逆にいうと、砒素含有率〇・〇三%の第二燐酸ソーダであるならば、これを原料牛乳に前記のような割合で添加する限り、よつて製造される乳児用調整粉乳は、人体に無害なのである。

ところが、原判決は、右〇・〇三%の砒素を含有する第二燐酸ソーダが、本件の場合、無害か或いは有害かの点について、概念の混乱を生じているのではないかとの疑問がないわけではない。というのは、原判決は、前記のように、原判決三五丁表において、本件工場が使用する第二燐酸ソーダの砒素含有率は〇・〇三%以下のものであればよいとしながら、三九丁裏一行目においては〇・〇三%(原判決に〇・三%とあるのは〇・〇三%の明白な誤記である)以上と記載し、四〇丁裏五行目においては、〇・〇三%未満のものがあるに過ぎないと記載し、四〇丁裏六行目以下においては、「砒素含有率が重量比で〇・〇三%以上の第二燐酸ソーダが出現するかも知れない。」というような不安感と判示し、四一丁表三行目においても、〇・〇三%以上と記載しているからである。したがつて、右のような判示の仕方から考えると、原判決が、〇・〇三%の砒素を含有する第二燐酸ソーダは、本件の場合、果して人体に有害であるとなすのか、それとも無害であるとなすのか必ずしも明らかでない。

しかし、原判決が認定した右〇・〇三%の数字は、原判決掲記の右各証拠と照しあわすと、無害と有害との間のぎりぎりの数字ではなく、〇・〇三%の砒素を含有している第二燐酸ソーダである限りにおいては無害であることは勿論、僅かではあるにしても或る程度余裕のある数字であることが窺われるのである。したがつて、原判決の判示の趣旨も、〇・〇三%のものは無害であると認定したものと解するを相当とする。そうすると、右〇・〇三%の砒素含有量は、論旨のいうように、人体有害量でないことは勿論、かりに、これが〇・〇三一%とか〇・〇三二%であつても未だ必ずしも人体に有害な程度の砒素含有量とはいえないのみならず、原判決の判示する〇・〇三%というのは砒素含有率であるのにかかわらず、論旨のいう〇・〇二五%というのは亜砒酸含有率であることは前記説示によつて明らかであり、亜砒酸含有率〇・〇二五%を砒素含有率に換算すると〇・〇一八%位になるのであるから(亜砒酸中の砒素は約四分の三である)、論旨は、ことがらの性格を適切に把握していないとの非難を免れ難いというべきであつて、昭和二七年四月頃日産化学工業株式会社王子工場において生産された第二燐酸ソーダ中には、人体に有害な程度の砒素を含有するものがあつたとの論旨は失当である。

5  (一) 証人右沢武(上田塗料工業株式会社取締役、七の二九四九ないし二九五七)、(同伊東博之(共和理化学株式会社取締役、七の三二〇二ないし三二一六)、前記証人横山俊男(三の一〇八三、同一〇八四)及び同梶原一男(七の二九二一ないし二九四五)が、それぞれ論旨指摘のような供述(控訴趣意補充書第一の一の(三)、同一の(四)の(1) ないし(4) 参照)をしていることは所論のとおりであるが、同証人らの各供述記載を仔細に検討すると、その供述はいずれも推測の域を出ない部分が多いし、一部分真実であると認められる部分があつて、いわゆる第二燐酸ソーダの粗悪品が出廻つたとしても、右事実によつては未だ昭和三〇年当時我が国薬品業界に人体に有害な程度の砒素を含有する第二燐酸ソーダの粗悪品が出廻つていたとは認めることができない。論旨にいう粗悪品は、良質のものに比し若干程度が落ちていたことは否めないが、第二燐酸ソーダには変りはなく、それらに砒素が多量に含まれていたとは考えられないのである。

(二) また、前記証人草薙碩夫(六の二六三一及び一〇の四三五五)、証人森再直(日産化学工業株式会社木津川工場肥料課長、一二の五三九七)、前記証人藤野七郎(二二の一〇四六四及び二三の一〇九七一、証人伊藤友義(同会社王子工場分析課長、二二の一〇五七九及び二三の一〇六九九)、前記証人山内幸雄(二三の一〇八五〇及び二三の一一〇七二)、証人関成正(同会社王子工場分析課員、二三の一〇六六四)、同岡江義一郎(大洋化学工業株式会社試験研究係員、六の二六七四)、同山崎吉男(同会社北海道出張所勤務、二三の一〇七八六)及び同松田芳治(住友化学工業株式会社新居浜製造所第一製造部長、七の三四三九及び一四の六二六〇)らの各供述記載を仔細に検討しても、昭和三〇年当時、燐酸肥料を製造する際生ずる廃液から燐酸ソーダを製造していたというような事実は全く認められないのである。

(三) 前記証人松野隆信(一二の五六〇七)が、論旨指摘(控訴趣意補充書第一の一の(四)の(4) 参照)のような各供述(一二の五七五二ないし五七五四、五七六四、五七六五)をしていることは所論のとおりであるが、しがし、同証人は、燐酸ソーダについては、過去においても現在においても、副生品からこれを製造するということは聞いていないが、化学薬品工業全般からみれば、松野製薬が、本件物質の如き薬剤を製造したのは珍しいケースではないと証言しているのみならず、後記第二の二の3の(四)において説示するような同証人の立場から考えると、所論の右各供述を根拠として、廃液を利用して製造した燐酸ソーダが薬品業界に出廻つていたとの論拠とするのは失当である。

6  (一) 前記証人槌田龍太郎の尋問調書中の供述記載(三の一二三二及び同一二九一)並びに前記第二の一の2の(一)及び同3の(一)でそれぞれ認定した各事実によると、「第二燐酸ソーダ」は、右2の(一)で説示したような用途に用いられ、右3の(一)に記載したような方法で製造される薬剤であつて、右名称は化学上のものではなくむしろ商品名といつた方が適当であるが、化学上は、Na2HPO4・12H2O(またはNa2HPO4・7H2O)の化学式によつて現わされる化合物であつて、第二燐酸ナトリウムもしくは燐酸二ナトリウムと称せられ、学問上最も厳格な名称では、燐酸水素ナトリウム一二水化物(または七水化物)といわれている。右化学式によつて表象される文字どおり純粋な物質は、化学理論の上で考えられるものであつて、現実に取引の対象とせられるものは、右化学式によつて現わされる物質に微量の砒素その他の不純物を含有しているのである。そして、右一二分子水のものが試薬及び工業用であつて、右七分子水のものが局方品(現在においては改訂せられてひとしく一二分子水のものとなつていることは後記第二の三の5の(一)の(1) の項において説示するとおりである)である。

(二) 原判決第二章第三の四の1冒頭に掲げる各証拠(ことに記録三の一〇八六、一〇八七、六の二五三二、八の三五七六、三六三二、六の二六七九、二六八九、六の二七〇九、六の二七四五、二七四九、六の二七六四、七の三〇八九、七の三二三一、三二三七、七の三二五九、七の三三二一ないし三三二六、六の二六四〇ないし二六四二、一〇の四四四五、四四五〇ないし四四五二、一九の八七四六、八七七一、一九の八八二五、八八四三、二二の一〇四六四、二三の一〇九七一)及び前記証人山内幸雄の尋問調書(二三の一〇八五〇、一一〇七二)並びに押収にかかる清缶剤の分析試験成績について(通知)と題する書面一通(証六六号)を綜合すると、次の各事実が認められる。

(1)  昭和三〇年頃までに、我が国の薬品業界において製造された通常の燐酸中の砒素含有率は、〇・〇〇三%以下位であると思われ、接触式、鉛室式方法によつて製造された硫酸の砒素含有率は、〇・〇〇一%ないし〇・〇一%位であると考えられ、昭和二五年以降における第二燐酸ソーダの純度は、稀には九五%程度のものもあつたが、殆んど九八%以上であり、ことに試薬特級、同一級並びに良質のものは九九%以上であり、第二燐酸ソーダ中の砒素含有率は、少ないものでは〇・〇〇〇x%(〇・〇〇〇一%ないし〇・〇〇〇四%位)であり、やや多いものでも〇・〇〇x%(〇・〇〇一%ないし〇・〇〇九%位)であり、最も多いものでも〇・〇一%位であつたのである。(前記第二の一の4の各項で認定した日産化学工業株式会社王子工場製品の〇・〇一八%の数字は極めて例外の場合である)。したがつて、我が国の薬品業界においては、本件の砒素中毒事故が発生するまでは、製造業者ことに乾式燐酸を原料として第二燐酸ソーダ(第一、第三燐酸ソーダをも含めて)を製造していた業者は、いずれも、第二燐酸ソーダ中の砒素の含有率は極めて微量であつたし、第二燐酸ソーダ中の砒素による中毒事故の発生したことはなかつたため、局方品及び試薬以外の工業用第二燐酸ソーダ中の砒素の含有量については、殆んど意に介していなかつたというべきである。

(2)  大洋化学工業株式会社、日新産業株式会社及び関東化学株式会社から日本国有鉄道仙台管理局へ納入された清缶剤中に、右大洋及び日新のものについてはいずれも〇・〇二五%、関東化学のものについては〇・〇二五%以下の砒素を含有していた旨の報告が、昭和二九年一一月一六日付で国鉄仙台鉄道管理局総務部長から同局運転部長宛行なわれている事実がある。ところが、右は、当時同局衛生試験室勤務の国鉄職員犬飼信が、日本薬局方に定めるグートツァイト法によつて砒素の定量試験を行なつた結果現われた数字なのであるが、右数字は、もともと亜砒酸の含有量として表示すべきを砒素の含有量と誤解して表示しているのみならず、同証人も供述しているように、同証人がグートツァイト法による砒素の定量試験をしたのはその時が始めてであつたこと並びに前記証人岡江義一郎の供述(六の二六八九)に照して、前記砒素定量試験の結果の数字はにわかに信用できない。

7  以上第二の一の2ないし6の各項において詳細説示したところによつて明らかなように、昭和三〇年当時(この以前においても同様)我が国薬品業界における第二燐酸ソーダの製造方法は、日軽金産出物(本件物質であり、松野製剤でもある)を除いては、前記第二の一の3の(一)に記載した方法に限られていたと認めるのが相当であり(同3の(二)の(1) 及び(2) に記載した数少ない例外も、第三燐酸ソーダを製造した場合であつて、第二燐酸ソーダを製造した事例ではない)、第二燐酸ソーダにはその性質上不純物として砒素を含有しており、また、かりに、第二燐酸ソーダの製造業者が、食品添加物として第二燐酸ソーダが使用されることはむしろ例外的なことであるとして、その製造にあたり食品衛生的配慮を払わなかつたとしても、業者によつて製造される第二燐酸ソーダは、自然に前記6の(二)の(1) に説示した程度の砒素含有率のものに生産されていたというべきであり、製造工程の相違、すなわち、乾式燐酸を用いるか湿式燐酸を用いるかによつて、或る程度砒素の含有率に相違を生ずるけれども、しかし、より多く砒素を含有するといわれる湿式燐酸を用いた製造方法による場合でも、前記程度の砒素含有率に過ぎなく、したがつて、人体に有害な程度の砒素(本件では〇・〇三%を超えるもの)を含有する第二燐酸ソーダが薬品業界に出廻つていたような事実もなかつたし、また、出廻る虞もなかつたというべきである。したがつて、原判決が、第二章第三の四の2の項において、「前記の方法で作られる燐酸を原料としてこれをソーダ灰等で中和させるという製法によつて作り出される第二燐酸ソーダである以上、最悪の方法(すなわち、鉛室式硫酸を用いて作られた湿式燐酸を原料とする方法)を前提として最悪の条件を考えても、砒素含有率が重量比で〇・〇三%未満のものができあがるに過ぎない。」と説示し、人体に有害な程度の砒素を含有する第二燐酸ソーダが業界に出廻る虞はないと判断したのは相当であつて、この点に関する限り、原判決には事実の誤認はないといわなければならない。そうすると、検察官が前記1の論旨で主張するような事実は、到底認められないといわなければならない。

二  「第二燐酸ソーダ」という名称は商品名であるから、第二燐酸ソーダとして薬品業界に出廻る薬剤の成分規格は必ずしも一定しているものではなく、化学上は第二燐酸ソーダと称することはできなくても、取引上は第二燐酸ソーダと称し得る薬剤も存在するとの論旨について。

1  所論の要旨は次のとおりである。

(一) 第二燐酸ソーダという薬剤も取引の対象となるときは商品であり、「第二燐酸ソーダ」というのは商品名であるから、そういう商品名で取引される薬剤が、一般的にどのような成分規格のものであるかということは、薬品業界がどのような成分規格の薬剤に「第二燐酸ソーダ」という商品名をつけるかということに帰着し、また、個々の具体的取引において、「第二燐酸ソーダとして売買される薬剤」がどのような成分規格であるかということは、当該薬剤を製造販売するものが、どのような成分規格のものにその商品名をつけるかということに帰着し、商品としての用途に適する限り、ある薬剤の過半量を占めている成分の名称をもつてその薬剤の代表的商品名とするのが、業界の実状においては普通行なわれている習慣であると認められる。

(二) したがつて、「第二燐酸ソーダ」という商品は、(1)  昭和三〇年当時行なわれていた第二燐酸ソーダの量産方法によつて製造される薬剤、(2)  若干量の不純物を含有していても、成分として第二燐酸ソーダが過半量を占めて清缶剤、洗滌剤としての用途に適すると考えられる薬剤、(3)  主成分の組成の仕方により、化学的には第二燐酸ソーダとはいえなくても、成分として第二燐酸ソーダが過半量を占めて清缶剤、洗滌剤としての用途に適すると考えられる薬剤(例えば公訴事実一、二掲記の薬剤の如きもの)等が、第二燐酸ソーダという商品名で市販されて業界に出廻ることもあるわけである。そして、本件の場合、右のうち、(1) の薬剤は、工業用第二燐酸ソーダの正常品に該当し、(2) の薬剤は、工業用第二燐酸ソーダの粗悪品に該当し、(3) の薬剤は、工業用第二燐酸ソーダの類似品であつて、しかも、工業用第二燐酸ソーダの粗悪品に該当すると云い得るのである。

(三) 前記のようにして出廻る第二燐酸ソーダという商品は、食品衛生的配慮が払われないで製造されるものであるために、原料の選択、製造工程の管理いかんにより、人体に有害な程度の砒素を含有していることもあり得るのである。然るに、原判決が、第二燐酸ソーダという商品を、昭和三〇年当時行なわれていた第二燐酸ソーダの量産方法によつて製造される薬剤のみに限定し、第二燐酸ソーダという限り、人体に有害な程度の砒素を含有する薬剤はなく、そのような薬剤が業界に出廻る可能性はなかつたと判断したのは事実誤認である、というのである。

2  原審で取調べた各証拠によると、昭和三〇年四月一三日頃以降本件工場で製造された乳児用調整粉乳中に、人体に有害な程度の多量の亜砒酸を含有するに至つたのは、本件工場が乳児用調整粉乳を製造するにあたり、安定剤として、前記第二の一の3の(二)の(3) の(ロ)で説示した松野製剤(本件物質でもあるし、日軽金産出物でもある)に四・二%ないし六・三%の多量の砒素を含有していたためであり、それ以外には原因のなかつたことが明らかである。そうすると、松野製剤は、本件の核心をなす物質であるというべく、しかも、論旨は、松野製剤も取引上は第二燐酸ソーダの範疇に属する薬剤であると主張するので、まず、松野製剤の化学上の性質を明らかにする必要がある。

原判決第二章第一の二の3に掲げる各証拠によると、松野製剤の可溶性部分の主成分の化学式は、2Na3(PO4,ASO4,VO4)・NaF・18H2O〔学者によつては、2Na3(PO4,AsO4,VO4)・NaF・nH2Oもしくは2Na3(P・As)O4・Na(F・OH)・22H2Oと表示する〕で現わされ、従来、右物質と同じ化学式で表示せられる物質は、我が国の化学界において研究の対象物とされたこともなく、化学上は極めて異例に属する特殊化合物であり、日本語による命名も困難な物質であつて、燐酸(燐酸と同一資格で砒酸とバナジン酸を含んでいる)ナトリウムと弗化ナトリウムとの複塩及び水とからなつていることが認められ、また、松野製剤中に含まれている砒酸の重量は、松野製剤の重量の約一〇・八八%ないし一一・〇四%位であると推定されるのである。さらに、警察庁科学捜査研究所化学課警察庁技官西山誠二郎、同丹羽瀬鑒及び同荏原秀介共同作成にかかる昭和三〇年一二月一二日付鑑定書(三七の一六五〇二)によると、松野製剤中の砒素の含有量は、約四・二%ないし六・一%位であり、松野製剤の水溶液からは燐酸イオン、砒酸イオン、弗素イオン及びナトリウムイオンが比較的多く検出されるため、これらをナトリウム塩の形として算出すると、二五・五%の第三燐酸ナトリウム、二・〇%の第二燐酸ナトリウム、一六・六%の第三砒酸ナトリウム、〇・二%の第二砒酸ナトリウム及び八・二%の弗化ナトリウムからなり、その他には少量のアルミニウム等外数種の夾雑物を含有する物質であることが認められるのである。

したがつて、右に認定した各事実及び前記第二の一の6の各項において認定した各事実に徴すると、松野製剤は、燐酸とナトリウムとを主たる成分とする化合物、すなわち、化学上の第二燐酸ナトリウムとは全く異なる性質の物質であるといわなければならないし、第一もしくは第三燐酸ナトリウムともいえない物質であつて、ことに、第二燐酸ナトリウムの含有量が二・〇%に過ぎない点は、看過し得ないことがらである。

3  「第二燐酸ソーダ」という名称が取引上で用いられる商品名であることは、前記第二の一の6の(一)において説示したとおりである。

(一) 所論の証人槌田龍太郎の各供述記載(三の一二三二、同一二九一)を仔細に検討すると、同証人は、本件物質(松野製剤)は、化学上第二燐酸ナトリウムと異なる物質であるのみならず、本件物質が燐酸ナトリウム分を含んでいるため、たとえ清缶剤もしくは洗滌剤としての効能があるからといつて、商取引上においてもこれを第二燐酸ソーダと称することのできないのは、あたかも、サッカリンが砂糖と同様な用途に用いられるからといつて、サッカリンを砂糖と称して売買することが許されないのと同じであるとさえ供述しているのである。然るに、論旨が、同証人が所論のような供述(控訴趣意書八丁表一行目以下)をしていると主張するのは、同証人の供述の趣旨を正解しないでなす誤つた議論であるといわなければならない。

(二) 前記証人岡沢富雄(六の二七七一)が、所論(控訴趣意書八丁裏五行目以下)のような供述をしていることが認められるが、同証人は、他方、日軽金産出物は、通常の取引界においては、第二燐酸ソーダとしては通用しないことは判つていた旨供述しているのみならず、さらに、昭和三一年六月一〇日付同証人の供述記載(一の三八九)によると、本件物質を第二燐酸ソーダと呼称することは無理であるとも供述しているのである。

(三) 前記証人成岡茂(六の二八〇一)が、所論(控訴趣意書八丁裏一〇行目以下)のような供述をしていることが認められるが、しかし、同証人もまた、日軽金産出物が取引界で正常な第二燐酸ソーダとして通用しないことは判つていた旨、並びに、右物質が危険であることは予想されたので、松林薬品工業株式会社が南静化学工業株式会社に対し日軽金産出物を売却する際、同会社係員に対し、右物質を食品関係に使用してはならないといつてあつたし、同会社は、右物質を原料として清缶剤を製造したが、これを日本国有鉄道へ納入しただけで、市販はしていない旨供述していることが認められる。

(四) 前記証人松野隆信の供述記載(一四の六三六四)によると、所論(控訴趣意書八丁裏一三行目以下)のような供述をしていることが認められるけれども、同証人は、他方、本件物質の成分が判明しておれば、これをそのまま第二燐酸ソーダとして普通一般に取引することのできないのは当然であるが、もし本件物質の成分内容を公開した上ならば取引できると供述しているのみならず、同人は、本件物質を第二燐酸ソーダとして流通過程においた人物であるから、自己の責任を免れるためにも、所論のような供述をするのは、むしろ当然のことであるといわなければならない。

(五) 前記証人霜永忠平(六の二五九四)が、論旨指摘(控訴趣意書八丁表一二行目以下)のような供述をしていることは所論のとおりであるが、しかし、同証人も、不純物が使用目的を阻害しなければ、大部分の含有率の成分の名称をもつて、当該物質全部を代表させ得ると供述していることを看過してはならないのである。

4  日軽金産出物が、取引の対象におかれたことは、前記第二の一の3の(二)の(3) の(イ)、(ロ)、(ハ)及び同(4) において説示したとおりであるが、右(3) の(イ)の各取引及び同(4) の各取引のうち日本軽金属株式会社、松林薬品工業株式会社及び南静化学工業株式会社間の各取引は、粗製燐酸ソーダという名称で取引せられたとしても、売買の各当事者間において、右日軽金産出物が燐酸ソーダでないことを十分知悉して取引したのであり、その取引価格も、右(4) に記載したような低廉なものであり、右(3) の(イ)の各取引も右(4) の各取引価格とよく似たものであつたし、右(4) の取引のうち南静化学工業株式会社と日本国有鉄道間の取引は、日軽金産出物を原料として製造した清缶剤の取引であるから、右各取引は、いずれも「燐酸ソーダ」としての取引であつたとは認め難いというのを相当とする。ただ、右(3) の(ロ)及び(ハ)の各取引だけ、すなわち、松野製薬が、日軽金産出物を本件物質にしたうえ、第二もしくは第三燐酸ソーダとして売り捌いた各取引だけが、第二もしくは第三燐酸ソーダとしての取引であつたというべきである。なお、燐酸ソーダというと、第二燐酸ソーダを意味することが多いし、第一、第二もしくは第三燐酸ソーダの総称として用いられることもあるが、取引の際、当該具体的の物質が、燐酸ソーダとはいえるが、第一、第二もしくは第三燐酸ソーダのいずれとも断定し難いような薬剤が、燐酸ソーダとして取引されたような事例は、日軽金産出物以外には認められない。

5  前記第二の二の2ないし4の各項で説示したことによつてすでに明らかなように、前記第二の二の3の(一)ないし(五)掲記の各証人の供述によつては、前記第二の二の1の(一)記載のような所論事実、すなわち、第二燐酸ソーダの製造業者間において、その製造する第二燐酸ソーダという薬剤の組成成分を自由に決定したり、または、第二燐酸ソーダでない或る薬剤中に、一部分燐酸ナトリウム分が存在し、第二燐酸ソーダの主用途である清缶剤、洗滌剤等に適するからといつて、その薬剤中に存する燐酸ナトリウム分以外の化合物である他の組成分子の存することを無視して、これを第二燐酸ソーダとして取引するような業界の習慣は、存在しなかつたことが窺われるのである。もともと、第二燐酸ソーダという物質は、化学的化合物であつて、日本薬局方に燐酸ナトリウムとして収載されているし、日本工業規格においても、試薬品及び工業用品につきそれぞれ規格を定められている薬剤であるにかかわらず、化学を離れて別個の第二燐酸ソーダが商取引上一般的に横行するということは到底考えられないことであつて、化学上第二燐酸ナトリウムと称せられるものが、取引上においても第二燐酸ソーダとして通常売買せられていると認めるのを相当とする。

よつて、昭和三〇年当時我が国の薬品業界において取引されていた第二燐酸ソーダという薬剤は、前記第二の二の1の(二)の所論(1) の薬剤(局方品、試薬品及び工業用品を問わず第二燐酸ソーダ全部)に限られていたのであり、同所論(2) のような薬剤の存しなかつたことは、既に前記第二の一の各項で詳細説示したとおりであり、さらに、同所論(3) の薬剤、すなわち、松野製剤の如き化学上第二燐酸ソーダでない薬剤が、取引上においては第二燐酸ソーダとして取り扱われるというようなことは、薬品業界一般において承認されていなかつたことといわなければならない。

したがつて、原判決が、松野製剤は、化学上の第二燐酸ソーダでないことは勿論、取引上においても第二燐酸ソーダの範疇に属しない薬剤であると判断したのは相当である。然るに検察官が、前記所論(3) のような化学上第二燐酸ソーダでない薬剤が、取引上においては第二燐酸ソーダとして薬品業界に一般に出廻る可能性があつたことを前提として、原判決の前記認定を非難攻撃するのは、失当であるといわなければならない。

三  商取引上において、注文した品物と異なる品物が納入される場合があるとの論旨について。

1  所論は、その趣旨必ずしも明らかでないが、要するに、工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては、第二燐酸ソーダでない薬剤(以下「非第二燐酸ソーダ」と略称する)が納入される危険性があるというに帰着するのである。

2  商取引上において、買主が甲という品物を注文したとき、売主から買主に対し、注文品甲が納入されるのが普通であるが、往々にして買主の予期に反して注文品甲とは異なる乙という品物の納入されてくることも我々の日常生活において経験するところである。多くの場合、すでにその品物の包装もしくは容器自体に乙と表示されているので、買主は直ちに自己が注文した甲品でないことを発見し、注文品と相違するということで、これを返品するか、もしくは乙品の用途に従い使用し、甲品の用途には使用しないため、ことなきを得るのであるが、しかし、時には、その品物の包装もしくは容器には甲という標示があるのにかかわらず、内容品は乙品が入つていることも絶無ではないのである。右のような現象が起るのは、売主の故意による場合もあるだろうし、何らかの原因に基づく、売主側、すなわち、製造業者もしくは販売業者の錯誤による場合もあるのである。この理は、第二燐酸ソーダの売買についてもあてはまるのは当然のことである。そして、右の事柄は、経験則によりこれを首肯し得るところであつて、証拠によつて認定しなければならない事実には属しないことはいうまでもないことであるが、本件においては、次の3の各項において説明するような事情の存したことに徴すると、右危険性は一層大きかつたといわなければならない。

3  (一) 前記証人松野隆信(一四の六五四五以下)、同田村正(七の三二三二、三二三三)、同水木義治(七の三三二九、三三六一)、同本田直栄(二の九六四)、証人沢辺良一(産興化学株式会社員、七の三〇三〇、三〇三九)、前記証人伊東博之(七の三二〇八)、証人河窪真澄(丸善薬品産業株式会社営業部次長、七の三二七七、三二七八)及び同阿下武雄(元大阪薬品株式会社徳島出張所店員、一八の八六一五)の各供述記載を綜合すると、工業用第二燐酸ソーダの卸売業者の或る者は、時によると、自己の得意先が製造業者と直接取引をするのを防止するため、製造会社名が第二燐酸ソーダの容器や外装に表示されることを嫌い、製造業者に要求して、容器や外装が無印の薬剤を受取り、これに卸売業者である自己の名称及び薬剤名を入れて販売していた事実が認められるのである。右の事実から判断すると、運送の途上において薬剤の混同を生ずる危険も考えられるし、卸売業者が無印の薬剤を受領した後、誤つて包装の表面に内容品と異なる薬剤名を記載する虞もあるといわなければならない。

また、場合によつては、二種以上の薬剤の製造業者が、甲という薬剤を製造したのにかかわらず、乙薬剤名の標示のある容器に右甲薬剤を詰めたり、甲薬剤を詰めた容器やその外装に乙薬剤名の標示をいれることも絶無ではなく〔証人大倉親英(生駒薬化学工業株式会社常務取締役)の供述記載、七の三四一八参照〕、さらに、同一倉庫内にある多種多様の薬剤の梱包をし直すような際、包装と内容品とを取違えて梱包を行なうようなことも考えられないことではない。〔証人金原松次(厚生省公衆衛生局技官)の供述記載、一一の五一六五参照〕

(二) 現在の経済機構の中では、いかなる商品の製造及び売買取引でも、業者間の競争がますます激化していることは公知の事実であり、これに対処するため、一般の化学工業界においても、生産コストの低下を図つて、できるだけ安い原材料を用いたり、ある物品の製造工程から派生する副生品の有効な利用を考えたり、製造工程の短縮を企図していること〔前記証人霜永忠平の供述(六の二六〇二以下)、証人富沢稔穂(東北化学工業株式会社技術担当社員)の供述(六の二五六八以下)各参照〕は、想像に難くないのであつて、これによつて正常な名実の一致した薬剤が製造され、これらがより低廉な価格で薬品業界に出廻るのは望ましいことであるが、薬品製造業者の数は相当多く、その業態も千差万別であつて、薬品製造業者中の或る者は、右の原理を悪用して、どうせ工業用薬品に使用されるのだからというような安易な考から、商業道徳に反するような行為をなす不心得者もいないとは限らないのである。

4  なお、本件と同種事案とはいえないけれども、内容品の薬剤とその標示とが相違していたため、重大な結果を惹起した二、三の事例を、参考までに掲げることとする。

(一) 食品添加物として重曹を販売していたものが、重曹一袋を買いに来た顧客に対し、重曹と誤信して、毒物たる亜砒酸を重曹であると称して販売した結果、顧客において、これを使用して蒸パンを製造し、これをその二男に食せしめたため、同人をして亜砒酸中毒により死亡するに至らしめた事例(昭和二四、一〇、一四、東京高裁判決、高等裁判所刑事判決特報第一号一四三頁参照)。

(二) 患者が、注射剤ぶどう糖カルシウムと思料される二〇CC入アンプル五本在中し、「第一製薬株式会社製ぶどう糖カルシウム」の標示のある紙函一箱を病院に持参し、医師に注射を依頼したのであるが、実は、右紙函中の二本のアンプルはレッテルが貼つてあつてぶどう糖カルシウムであつたが、他の三本にはレッテルがなく点眼薬カルパノールヒヨリンクロットであつたのに、医師が、これを紙函に表示されているぶどう糖カルシウムであると誤信して、患者の左腕静脈に注射したため、同患者を死亡するに至らしめた事例(昭和三二、二、二六、福岡高裁判決、高等裁判所刑事判例集一〇巻一号一〇三頁参照)。

(三) 硝酸ストリキニーネの入つた薬袋の表面にフェナセチンと表示されていたため、薬剤師が、これをフェナセチンと誤信し、これを使用して医師の処方箋により鎮静剤を調剤した結果、これを服用した者を、死亡させたり、硝酸ストリキニーネ中毒症に陥らしめた事例(昭和三〇、五、一〇、神戸地方裁判所姫路支部判決参照、本判決については、昭和三一、七、一八、大阪高裁の控訴審判決が、昭和三四、九、二二、には最高裁第三小法廷の上告審判決がある)。

5  第二燐酸ソーダの発注に対して、非第二燐酸ソーダの納入される危険性のあることは、前記説示のとおりであるが、第二燐酸ソーダにも他の薬剤と同様、その用途に従い、局方品、試薬及び工業用薬品の区別が存するところ、第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダの納入される危険性は、右各種の第二燐酸ソーダ全部について、起り得るかどうかを考えてみる必要がある。そこで、まず、第二燐酸ソーダの局方品、試薬及び工業用薬品について検討しなければならない。

(一) (1)  局方品

薬事法(昭和二三年七月二九日法律第一九七号)、押収にかかる前記注解第六改正日本薬局方(証五四号)及び当審(第一二回公判)証人高木英典(香川県厚生部薬務課指導係長)の供述によると、我が国においても諸外国と同様明治一九年六月二五日に日本薬局方(第一版)が制定せられ、爾来数次の改正を重ね、本件発生当時においては、昭和二六年三月一日に改正された第六改正日本薬局方が施工されていたのであるが(現在においては、昭和三五年法律第一四五号薬事法第四一条による第七改正日本薬局方が施行せられている)、薬局方は、国家が制定した医薬品の公定書であり、医薬として基礎的に重要性のある時代の代表的医薬品を収載し、その強度、品質及び純度の基準を定めたものであつて、局方品とは、日本薬局方に収載せられた医薬品を意味するのである。したがつて、局方品である医薬品の、製造業については厚生大臣の、販売業については都道府県知事の、各登録を受けなければその営業を行なつてはならないし、製造業者及び販売業者の手許にある薬剤は、薬事監視員による立入検査の対象とされており、その強度、品質及び純度が日本薬局方の定める基準に適合しなければならないのであり、そのために製造業者自ら製品の自家試験を実施しているのであり、局方品の標示には、「日本薬局方」の文字、日本薬局方に掲げる薬品の名称又はその別名並びに製造業者の氏名及び住所等を表示しなければならないのであり、薬品の容器もしくは被包には封緘を施しているのが通例である。右の各事実から考えると、局方品は、医薬品として直接人の生命及び身体に影響を及ぼすために、製造工程及び販売過程等の各段階において厳重な管理体制の下に置かれているのであつて、容器に封入されている薬品は、容器もしくは被包(容器の外側を包む包装)に表示されているとおりの薬品であること並びに日本薬局方所定の成分規格を有する薬品であることを、製造業者の責任において保証しているものであると解するのを相当とする。

そして、第二燐酸ソーダも日本薬局方に収載されている薬品であり、名称は第二燐酸ナトリウム(Na2HPO4・7H2O)と称せられて、その成分規格が公定せられているのである。〔もつとも、現在においては、昭和三六年四月一日厚生省告示第七六号によつて公布せられた第七改正日本薬局方が施行せられており、それによると、第二燐酸ソーダは、リン酸水素ナトリウム(Na2HPO4・12H2O)と称せられ、七分子水のものであつたのが、一二分子水のものに変り、試薬や工業用のものと同一になつた〕。第二燐酸ソーダの局方品が、前記に説示したような各条件を具えた薬品であることはいうまでもない。

なお、封緘の点については、現行薬事法第五八条、薬事法施行規則(昭和三六年二月一日厚生省令第一号)第五九条によると、医薬品の製造業者は、その製造した医薬品を、医薬品の製造業者以外の者に販売し又は授与するときは、厚生省令の定める方法により、医薬品を収めた容器又は被包に封を施さなければならない旨の規定が存するのにかかわらず、昭和三〇年当時施工せられていた旧薬事法には、毒薬又は劇薬については容器に封緘を施さなければならない(同法第三六条)ことになつているが、一般の医薬品についてはその旨の規定がない。しかし、医薬品の性質、もし医薬品の容器に封緘がないとすると、消費者が安心してこれを使用することができないこと(なお、第六改正日本薬局方通則第四二項及び燐酸ナトリウム(第六一五番目)の項によると、第二燐酸ナトリウムは気密容器に貯えなければならないことになつている)、並びに旧法当時においても現に医薬品についてはその容器に封緘が行なわれていたこと等に徴すると、旧薬事法に現行法所定の前記のような一般的な封緘の規定がなかつたとしても、医薬品の容器の封緘の点については、現行法と同趣旨であつたと解するのが相当である。

(2)  試薬

当審証人芝山正(通商産業省工業品検査所化学製品課長補佐)、同大越市郎(日本試薬連合会及び東部試薬協会書記長)及び同丸若澄夫(西部試薬協会副理事長、丸若化学工業株式会社代表取締役)の各尋問調書によると、試薬とは、化学教育、試験研究、分析実験及び特殊工業等に使用されるために必要な一定純度を保証し得る特定の規格を標準として、製造販売される薬物の総称であつて、化学試験の結果を数値をもつて現わす場合にも、秤や温度計とともに欠くことのできない度量衡的な薬物であることが認められる。したがつて、その試験結果を正しいものとするために、まず基準となる試薬そのものの規格が正しく、かつ、純度の高いことが厳格に要求されるのである。

右当審証人らの各尋問調書、証人富田精一(米山化学工業株式会社営業課長、三の一〇六五、一〇六六)、同宇津勝三郎(株式会社宇津商店常務取締役、二三の一〇八四一)、前記証人白子敏(一九の八七八八)、同横山俊男(三の一〇九三)、同本田直栄(二の九六三)、同下岡辰夫(一七の七六八三)、同今津定(一五の七〇八四ないし七〇九六)、同大倉親英(七の三四三〇)及び証人斯波之茂(関東化学株式会社顧問、六の二六六七)の各供述記載並びに押収にかかる昭和三二年一二月二日付燐酸ソーダのJIS規格票の送付についてと題する書面(添附のJIS規格票三通を含む、証二三号)を綜合すると、次の各事実が認められる。

試薬が前記のような性質の薬品であるため、試薬製造業者は、不純物の含有量の少ないものの生産に努力しているのであつて、試薬と工業用薬品とでは一般的に製造工程にも精粗の差異がある。この理は、第二燐酸ソーダについても同様であつて、試薬の製造工程は工業用薬品のそれに比して鄭重であつたことが窺われる。

薬品についても工業標準化法(昭和二四年六月一日法律第一八五号)が適用されるのであつて、第二燐酸ソーダの試薬については、同法に基づき、昭和二八年五月六日、日本工業規格(JIS)「リン酸二ナトリウム(結晶)(試薬)」(K9019)として制定せられ、同年六月四日の官報で公示せられた〔その後、昭和三一年三月二八日(同年七月九日の官報で公示)と昭和三六年三月一日(即日官報で公示)の二回に亘り規格改正が行なわれた〕のであるが、右規格は、純度については特級と一級との二階級に分類し、その含量率を定め、砒素その他の不純物の含量を一定率以下に限定しているほか、試験方法その他につき詳細な定めをしているのである。「JIS」の前身である「JES」の時代においても、第二燐酸ソーダの試薬について規格が定められており、その当時には、特級、一級及び二級に区分せられていた。そして、日本工業規格に定められている薬品の試薬については、製造業者は、尠なくとも日本工業規格に定められた規格に適合する成分規格の試薬を製造し、「JIS」マーク表示の許可を受けた製造業者は、その薬品名、「試薬」という文字、等級(特級もしくは一級)「JIS」規格番号、製造業者の氏名及び製造年を、容器に表示して販売し、「JIS」マーク表示の許可を受けていない製造業者は、薬品名、試薬特級もしくは試薬一級、製造業者の氏名を、容器に表示して販売していたのである。

試薬は、その性質上特に、消費者の手に渡るまでに、他の異物が混入しないようにするため、薬剤によつてはその風化もしくは潮解を防ぐため気密容器に入れる等貯蔵についても慎重に配慮せられ、容器には封緘を施す等の措置がとられていたのである。日本工業規格で試薬の規格が定められている薬品については、製造業者もしくは販売業者は、通商産業省工業品検査所(出張所を含む)に対し、当該薬品が日本工業規格所定の規格を有するかどうかについて、検査を求め、同検査所においては、右薬品を日本工業規格所定の検査方法によつて検査し、規格に合格し、かつ、検査を求めた業者が希望すれば、当該薬品の各容器毎に封印をしたうえ、検査合格証紙を貼付するのであつて、民間ではこれを官封試薬と俗称している。(但し、昭和二八年ないし昭和三〇年頃において、業界に官封試薬の第二燐酸ソーダが出廻つていたことを認めるに足る資料はない。)

第二燐酸ソーダの試薬製造業者が第二燐酸ソーダを製造し、もしくは、第二燐酸ソーダの試薬販売業者が第二燐酸ソーダを譲受けたときは、自己の責任において、右各薬品が日本工業規格の試薬の規格に適合するか否かを検査し、もしこれに適合しているときには、当該薬品を容器に入れ、これに封をし、その容器及び被包に、第二燐酸ソーダ、試薬特級もしくは一級並びに製造業者名(卸売業者が自家試験を実施したうえ、第二燐酸ソーダの試薬を販売するときは、自ら製造したものとして表示するのが通例のようである)を表示したうえ販売するのである。もし、右製造業者が「JIS」マーク表示の許可を受けており、これを表示しようとするときには、右の外、前記説示のような表示をするのである。

以上の各事実が認められるのであつて、右各事実に徴すると、第二燐酸ソーダの試薬は、後記説示の工業用第二燐酸ソーダに比して、純度が高く、最少限或る一定の成分規格の基準に適合している薬品であつて、取引されるとき、ことに消費者の手に渡るときには、必ず第二燐酸ソーダの試薬特級もしくは一級である旨並びに製造業者の氏名の標示があり、かつ、当該薬品が間違いなく第二燐酸ソーダであること並びに実質的には日本工業規格「リン酸二ナトリウム(結晶)(試薬)」の規格に適合することを、製造業者の責任において保証しているものであると認めるのが相当である。被告人小山孝雄は当審第一一回公判期日において、試薬には必ずしも試薬の標示があるとは限らない旨の供述をしているが、右供述は、前掲各証拠に照してたやすく信用できない。なお、押収にかかる森永ドライミルク中毒事件と題する写真綴一冊(証一一五号)中の三三頁の写真によると、米山化学工業株式会社製造にかかる第二燐酸ソーダの試薬一級品についても、「日本工業規格試薬一級第二燐酸曹達」の標示がなされていることが認められる。

(3)  工業用薬品

前掲証人らの各尋問調書並びに原判決第二章第三の四の1に掲げる各証人尋問調書を綜合すると、工業用薬品とは、局方品及び試薬以外の薬品であつて、主として一般化学工業のために使用される薬品であるということができる。(局方品もしくは試薬も、本来の用途を離れて、或る特定の工業のため使用されることのあるのはいうまでもない)。工業用薬品は、局方品もしくは試薬に比して、純度は低く、したがつて、不純物の含有量が多く、製造工程も粗雑である。工業用第二燐酸ソーダについては、昭和三〇年三月五日、「りん酸ソーダ(正りん酸ソーダ)」(K 1437)として初めて日本工業規格が制定せられ、同年四月二六日の官報によつて公示せられた〔その後、昭和三一年一〇月二七日、「りん酸ナトリウム(正りん酸ナトリウム)」(K 1437)として規格改正が行なわれ、昭和三二年一月一二日の官報で公示せられた〕のであるが、それまでは何らの規格の定めもなかつたのであつて、製造業者も殆んど製品の成分規格について自主的に検査を実施していなかつたし、薬品の容器に封緘を施すようなこともしていなかつたことが窺われる。右のような事情に徴すると、第二燐酸ソーダの製造業者は、自ら製造した工業用第二燐酸ソーダについては、右に説示した局方品もしくは試薬に関するような強度の保証はしていなかつたと認めるのが相当である。

(二) 前記に説示した第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダの納入される危険発生の原因となる事情並びに第二燐酸ソーダの局方品、試薬及び工業用薬品の性格等を、彼此照し合わせて考察すると、第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダの納入される虞れのあるのは、工業用第二燐酸ソーダの場合(但し、後記第二の五の2の(二)の(1) の(ハ)記載のものはこれを除く)に限られるというべく、局方品及び試薬の第二燐酸ソーダ並びに後記第二の五の2の(二)の(1) の(ハ)記載の規格を指定した第二燐酸ソーダ(特別注文)の発注に対しては、非第二燐酸ソーダの納入される危険性は、まず考えられないと認めるのが相当である。もとより、概念的には、局方品及び試薬等の第二燐酸ソーダの発注に対しても、非第二燐酸ソーダの納入される危険のあることも絶無とはいえないであろうが、しかし、その蓋然性は極めて低く、殆んどないといつて支障はないであろう。

なお、原審検察官は、弁護人の求釈明に対し、工業用第二燐酸ソーダの意義について、(a) 日本薬局方に収載されているもの、(b) 医薬品集に収録されているもの、(c) 試薬と称するもの、(d) 日本工業標準規格のもの以外の第二燐酸ソーダであると釈明しているのであるが(一の一五三)、工業用第二燐酸ソーダについて日本工業規格が定められ、これが公示せられたのは前記のとおり昭和三〇年四月二六日であつたのであるから、松野製剤が最初に納入せられた同年同月一三日頃に日本工業規格品の工業用第二燐酸ソーダが薬品業界に出廻つていたとは思われないし、かりに出廻つていたとしても、右(d) のものが果して右(a) (c) と同様な品質についての保証があるか否かも疑問であるというべきであるから、工業用第二燐酸ソーダのうちから右(d) のものを除外しなかつたのであるし、右(b) については、医薬品用の第二燐酸ソーダは、右(a) として収載されていたので右(b) としては収録されていなかつた筈であるから、右(b) のものは論外として取り上げなかつたのである。

6  ところで、後記第三の三の1において説示するように、本件工場の従業員らは、協和に対し、前後一三回に亘り、工業用第二燐酸ソーダを注文したのであるが、これに対して、協和から、前記第二の一の3の(二)の(3) の(ロ)記載のとおり三回に亘り、非第二燐酸ソーダである松野製剤が納入されたのであつて、正常な第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダが納入されるに至つたのは、前記第二の一の3の(二)の(3) の(イ)及び(ロ)の各項において説示したような事情に基因するのである。そして、原判決が第二章第一の各項(ことに三の1)において説示するように、本件工場の従業員らは、右松野製剤の大部分を、非第二燐酸ソーダであることを知らないで、乳児用調整粉乳を製造する際、原料牛乳に〇・〇一%の割合で添加使用するに至つたのである。〔なお、原判決は、第二章第一の一の項において、一方厚生省では乳児用調整粉乳中における砒素化合物の有無についての試験を国立衛生試験所に依頼し、同試験所で試験したところ別表第三記載のとおりの試験成績が出た、と判示しているところ、原判決添附の別表第三には本件工場製(MF印)以外の乳児用調整粉乳(ML印)からも砒素化合物が検出された旨記載せられているのであるが、右は、押収にかかる衛生試験所報告別冊第七四号(証九九号)から転記する際誤つて記載せられたものである。〕

四  右危険発生の予見は可能であつたこと。

1  工業用第二燐酸ソーダの発注に対し、非第二燐酸ソーダが納入され、本件工場の従業員らが、乳児用調整粉乳を製造するにあたり、非第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用するに至る客観的危険性の存したことは、前記第二の三の各項において説示したとおりである。しかし、たとえ、右のような客観的危険性が存したとしても、食品製造の業務に従事する被告人らの立場において、右危険の予見が不可能であるときには、被告人らに刑事上の過失責任を問擬し得ないことは明らかであるから、右のような危険な結果の発生について予見が可能であつたかどうかを検討しなければならない。

2  右予見が可能であつたかどうかを検討するにあたり、果して、第二燐酸ソーダの製造業者及び販売業者、右薬品を食品に添加使用していた食品製造業者並びにその他の者が、食品添加物として使用される第二燐酸ソーダを、いかに理解し、認識していたかは、これを看過し得ない事柄であるといわなければならない。

(一) (1)  前記証人横山俊男(三の一〇九六、一〇九七)は、原審第五回公判期日において、検察官から尋問を受けた際、問「第二燐酸ソーダをあらゆる食品の原料として使う場合、どんな規格のものを使うのが適当ですか。」答「なるべくなら工業用でないものがよいのです。試薬や局方品がよいのです。」問「何故そんなことがいえるのですか。」答「燐酸ソーダでなくても、食品に薬品を使うときは、そんなものを使つている場合が多いのでそういえるのです。」問「工業用を使えば悪い理由があるのですか。」答「工業用でも燐酸ソーダに関する限り、危険があるということは思えません。」問「それならば、なるべくということはいえないのではありませんか。」答「いえないのです。」と供述している。

(2)  前記証人兵頭二郎(六の二七五〇、二七五一)は、「明治製菓から当初第二燐酸ソーダの注文を受けたときは、注文者から特別の規格を示されたので、それに応じて作つている。」旨供述している。

(3)  前記証人田村正(七の三二三七、三二三八、三二四二、三二四三)は、「取引先から第二燐酸ソーダの注文を受ける際、工業用もしくは試薬と指定してくることもあるが、漠然と第二燐酸ソーダといつてきたときには、その用途を聞き、食品系統に使用する場合であれば試薬でないといけないという。夾雑物が少ないので安全だから試薬を売る。昭和化工及び中村茂商店へ、ふくらし粉用として第一燐酸カルシウムを販売しているが、ふくらし粉にするから無砒素の第一燐酸カルシウムをくれと指定して注文があり、無砒素燐酸を原料にして炭酸カルシウムをまぜて第一燐酸カルシウムを製造している。」との供述をしている。

(4)  前記証人本田直栄(二の九七〇ないし九七四)は、検察官の主尋問に対しては、「局方、試薬以外の第二燐酸ソーダが食品の加工にあたり添加使用されたということは聞いていない。人体に直接作用する薬品、食料品の原料として第二燐酸ソーダを使用するときは、法規に照らして、局方、試薬を使うべきである。まず第一に局方品を使うべきである。食品添加物として局方、試薬以外の第二燐酸ソーダを使うときは、分析したうえで信頼性を得てから使うべきである。」との趣旨の供述をしているのであるが、弁護人らの反対尋問に対しては、「米山化学で製造した第二燐酸ソーダであるならば、工業用第二燐酸ソーダでも、砒素の含有量が少ないから、食品添加物として使用しても危険はない。」との趣旨の供述をしているのである。

(5)  前記証人伊東博之(七の三二二〇)は、「食品加工に使用するといつて第二燐酸ソーダの注文を受けたときは、局方、試薬一級ないし特級を購入するようにすすめている。」旨の供述をしている。

(二) (1)  前記証人霜永忠平(九の三九〇二)は、「食品用に添加するのは、局方品に該当するものを使用すべきであつて、工業用薬品を使用するのは常識的でない。」旨の供述をしている。

(2)  証人上野^一(日本無機薬品協会技術部長、六の二六二七、一〇の四五一三、四五三九、四五四〇、四五四八、四五四九)は、「厳密にいえば、注文者が規格をつけて注文するのがよい。一般には純度どの位ということを条件として注文していた。名のとおつた会社だと、そこまでいわずに、どこの会社のを、といつている。工業用薬品を食品の添加物として使用するにあたり、初めて取引をするときは、規格を指定するなり、メーカーの銘柄を指定するとか、用途を指定するのが常識である。実際問題としては、局方というものは国の決めた一般に有害成分のない規格品であるから、そういうような品物ならば、一応は局方を指定するとか、局方品を使うのはあたりまえである。薬品取扱業者は、医薬向けの薬品、食品向けの薬品とその他の一般工業用向け薬品とは区別して考えているのが常識的である。」との旨の供述をしているのである。

(3)  前記証人金原松次(一一の五一四九以下)は、「厚生省においては、目的物以外の不純物の混入を避け、又は偽贋造品防止のため、局方もしくは試薬一級以上のものを使用するよう、かなり古くから指導しており、業者はそのことを知つている筈であり、食品会社によつては、局方品のない薬品等については、食品添加薬品の自社規格を定めているところもある。」旨の供述をしている。

(三) (1)  前記証人檜次(一九の八九一八以下)は、「株式会社寿屋においては、プレンソーダを製造するとき、ミネラルとして第二燐酸ソーダを添加使用しているが、社内で薬品類購買規格を作つており、第二燐酸ソーダは試薬特級(後に一級に変更された)を購入している。」旨の供述をしている。

(2)  前記証人下岡辰夫(一七の七六八六以下)は、「私どもは食品関係で働いており、食品製造の責任者であるので、常識として、添加物としては局方を使うものと思つていた。」旨の供述をしている。なお、同証人は、工業用第二燐酸ソーダがあることは知らなかつた旨供述しているけれども、右供述は、同人の学歴及び職業歴等に照して、にわかに信用できない。

(3)  前記証人毒島豊太郎(二〇の九五〇〇以下)は、「牛乳に中和剤として工業用第二燐酸ソーダを使用するのは感心しない。工業用第二燐酸ソーダは一応権威がなく規格がないから。大した量使うんでないから、こちらでも分析する設備もないし、する意思もないので。気楽に使えるからである。」旨供述している。

(四) (1)  証人榊嘉宏(本件工場濃縮係責任者、二五の一一六九九)は、「私は、食品衛生に使うものだから、当然これは、試薬か局方であると自分自身も思つていた。」旨の供述をしている。

(2)  証人片岡哲(徳島県衛生研究所技術吏員、元本件工場受乳係、一八の八五三一以下)は、「私は、本件工場の試験係蒔田洋美が当初黒崎器械店から第二燐酸ソーダを購入したとき、同人に対し、買うなら試薬の特級か一級を買えと忠告したことがある。」旨供述している。

(3)  証人田中清一(森永乳業株式会社技術部長)の各供述記載(一七の七六九四、七七三三、二〇の九三〇四)、被告人小山孝雄の原審第六一回公判期日における供述記載(三八の一六九一二一以下、ことに一六九五二)及び押収にかかる証六二号の一ないし六の各書面を綜合すると、森永乳業株式会社本社においては、傘下各工場に対し、絶えず、品質が向上し、かつ、衛生的にも無害な製品が製造されるよう注意を喚起し、ことに、牛乳中に工業用苛性ソーダを使用する乱暴さはどうしても避けねばならぬと警告し、食品に添加する薬品は、まず局方品を使用すべきであり、やむを得ないときは試薬一級をもつてこれにかえることができる旨指導し、もつて、原料及び添加物の選択には極めて慎重であるべきことを期待していたことが窺われる。

なお、右の点について、右証人田中清一(二〇の九三六六以下)は、森永乳業株式会社が、原料牛乳に安定剤として添加する第二燐酸ソーダは、局方品もしくは試薬一級を使用すべきであるとの基本方針をとつているのは、工業用第二燐酸ソーダに有毒物質が含有されているというためではなく、製品の品質向上のためである、と供述するので、按ずるに、なるほど、原料牛乳に第二燐酸ソーダを添加使用する際、局方品もしくは試薬を選ぶことが、製品の品質向上に役立つことはいうまでもないが、もし、品質向上のためだけならば、試薬一級の方が局方品よりも純度が高いのであるから、局方品よりも入手の容易であつた試薬一級だけを使用することにすればよい筈であるのにかかわらず、まず局方品を使用すべきであるとしていること、並びに第二燐酸ソーダの局方品、試薬及び工業用薬品を比較したとき、食品製造業者が最も安心して使用できるのは局方品であることも否めない事実であること等に徴すると、森永乳業株式会社の本社が、第二燐酸ソーダの如き薬品を牛乳に添加使用する場合には、まず局方品を選ぶべきであり、場合によつては試薬一級をもつてこれに代えることができるとしているのは、薬品製造業者の工業用第二燐酸ソーダについての保証の程度が薄弱であることをも慮ばかつての措置であると解するのが相当である。

(五) 元来、その薬品が、局方品もしくは試薬であろうと、工業用薬品であろうと、それが第二燐酸ソーダである限り、人体に有害な程度の毒物を含有していないことは、前記第二の一の各項において詳細説示したとおりであり、第二の四の2の各項に掲げた各証人らは、いずれも右事実を知つていながら、なおかつ、第二燐酸ソーダを食品に添加するには、局方品もしくは試薬を使用すべきであつて、工業用第二燐酸ソーダを使用するのは不見識であるというのであり、また、森永乳業株式会社本社自身が前記説示のような趣旨をも含めて、局方品もしくは試薬を用うべき方針を確立していたこと等にかんがみると、右各証人ら及び同会社本社の幹部も、「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」のうちには、必ずしも第二燐酸ソーダであることの明確な保証のない場合もあり得るから、非第二燐酸ソーダを食品添加物として使用することを防止するため、工業用第二燐酸ソーダの如きものを、何らの確認検査をもすることなくそのまま使用することは、これを避けるべきであると考えていたことが十分窺われるのである。

三  (一) 我々は、日常生活において、有毒物を含んでいるかも判らないというような不安感のある食物を摂取する筈はない。本来、食品として製造され販売されている物は、外観に異状さえなければ、何らの不安もなくこれを飲食するであろう。ところが、もともと、食品として製造された物ではなく、他の用途のため製造された物については、学理的にはこれを飲食しても無害であるとされていても、我々は、その製造の由来や流通の過程を確かめない限り、これを飲食するには躊躇を感ずるであろう。この不安感こそまさに前記にいう危険の予見なのである。

(二) (1)  右の理は、本件の場合にもあてはまる事柄である。元来、食品の製造加工にあたつては、有毒な添加物を使用する筈はないのであるから、もし第二燐酸ソーダが元来人体に有害な物質であるというのであつたならばこれを使用するというが如きは論外のことであつて、要は本来無害であるとされている物質を添加使用するにあたり、それに何等かの事情によつて含有されているかも判らない有害物をいかにして防止するかにあるのであつて、その物質の添加使用につき些かでも不安感が伴う以上、そのままではもはやこれを使用してはならないのである。

(2)  食品の製造、加工にあたり、添加物として使用される薬品が相当多数に存在することは想像に難くないところである。ところで、証人小池友蔵(清凉飲料水製造販売業を営む小池食品株式会社取締役会長、清凉飲料水工業組合全国連合会理事長、元大阪府清凉飲料水工業組合理事長、一九の九〇七〇、一二一の九七二六)、同小畑繁雄(三栄化学工業株式会社技術課長、一九の九一〇二、二一の九七六一)の各供述並びに押収にかかるミートン、カルゴン、サンポリマー等に関する各解説書(証一〇一号の一ないし三、一〇二号の一ないし八、一〇三号)を綜合すると、カルゴンは、米国のカルゴン社製造にかかり、同社の日本総代理店日本オルガノ商会の手によつて販売されているが、ことにカルゴンFGは、ジュース類添加剤等として販売されている薬剤であり、ミートンは、田辺製薬株式会社製造にかかるものであり、ことにミートン・Dは、冷菓、清凉飲料水用品質改良剤として販売されている薬剤であり、サンポリマーは、三栄化学工業株式会社製造にかかる清凉飲料水等の品質改良剤として販売されている薬剤であり、右各薬剤は、燐酸塩類を原料として製造されている薬剤であるが、清凉飲料水製造業者においては、右各薬剤がいずれも前記各薬品製造業者によつて食品に添加することを目的として製造された薬剤であるため、何らの不安感を抱くことなくこれを清凉飲料水製造の際添加使用していることが窺われるのである。また、前記小池食品株式会社においては、清凉飲料水を着色する際使用する色素は、食品用色素として販売されているものを購入していることが認められるのであり、さらに、酒石酸及び枸櫞酸等は必ずしも局方品もしくは試薬一級等を購入していないらしいのであるが、右各薬品はいずれも本来の目的が清凉飲料水製造のため使用される薬品であるために、必ずしも局方品や試薬を使用していないことが窺われるのである。

(3)  前記のように、本来、食品添加用として製造され市販されている物質は、特段の事情、すなわち、外観上異状のあることが直ちに判明するような物質もしくは信用のできないメーカーが製造した物であるような事情のない限り、食品製造(加工)業者は何らの不安なくこれを使用するのである。蓋し、それは、食品製造(加工)業者において、右のような物質は、その製造業者及び現実にその製造業務に従事する者も、それが食品に添加されることを意識して、主原料もしくは副原料の選択に留意し、場合によつてはその無害検査を実施したうえこれを製造していること、並びに販売に従事する者もその積りで販売しているものであることを認識しているからに外ならないのである。したがつて、右物質は、食品に添加してもよいとの強力な社会的保証が存するのであつて、食品製造(加工)業者が、これを食品に添加使用するにあたり、何らの不安感も抱くことなく、化学的検査を実施しないのは至極当然のことである。このことは、恰も本件工場において製造された乳児用調整粉乳を、何らの不安感も抱かないで飲用に供した多くの消費者の心境と全く同一であると考えて差支えないであろう。

(4)  ところが、右と事情を異にし、もともと、食品添加用として製造されたものではなく、食品添加物以外の他の目的に使用されるために製造したものを、食品製造(加工)業者において、自己の業務達成の便宜上、これを食品に添加する場合も起り得るのである。第二燐酸ソーダがまさにそのような薬品であることは、前記第二の一の各項において詳細に説示したところによつて明白である。この場合において、右薬品を使用する者が一抹の不安を感ずるであろうことは、右(一)の後段において説示した場合と同様である筈である。この不安感こそ、まさに本件で問題になつている危険の予見に外ならないのである。右の点に関連して、前記証人田中清一(一七の七七一一)は、第二燐酸ソーダは牛乳加工上普通に使用される薬品である旨供述しているので、按ずるに、なるほど乳業界においては同証人の供述するとおりであつたとしても、薬品業界においては、第二燐酸ソーダが食品ことに牛乳に添加されることを知らなかつた者が多かつたのであるから、一般的に第二燐酸ソーダが食品に添加されるものと考えられていたとはいえないし、まして、工業用第二燐酸ソーダが食品に添加されるというようなことは殆んどの薬品製造業者が考えていなかつたことは、前記第二の一の2の(二)の項において説示したとおりである。

(三) これを要するに、正常な第二燐酸ソーダを注文したのにかかわらず、非第二燐酸ソーダが、しかも第二燐酸ソーダと表示されて納入される(紛れ込む)というような過誤(危険)は、始終起るものでないことはいうまでもないが、しかし、前記のような工業用第二燐酸ソーダの性状から判断すると、良識ある通常の社会人であるならば、当然右過誤(危険)はこれを予見し得たことであるといわなければならない。しかも、被告人らは、食品を製造する森永乳業株式会社の他の工場及び本件工場の従業員として、長期間に亘り食品製造の業務に従事しており、豊富な智識及び経験を有するのであるから、その立場において細心の注意を払えば、通常の一般人に比し、より一層右危険の予見が可能であつたといわなければならない。のみならず、被告人小山は、後記第四の三の1の項において説示するとおり、原審第六一回公判期日(三八の一六七六三)において、そのような事実はないのにかかわらず、試験係責任者をして一箱毎に外観検査、溶状検査、官能検査を実施させた旨供述しているのであるが、右のような各検査は、その薬品が試薬一級であるかどうか、その砒素含有量がいくらであるかどうかを確認するに足りる方法ではないのにかかわらず、事実に反してまで右のような供述をするのは、同被告人としては、第二燐酸ソーダとして納入されてくる薬剤のうちには、化学的には第二燐酸ソーダとは異なる薬剤もありはしないかということを懸念していたためであるとも推測し得るのである。

(四) なお、松野製剤が前記第二の二の2の項において説示したとおり、従来我が国の化学者の間で一度も研究の対象にもなつたことのないような特殊化合物である日軽金産出物であつたのであるから、何人にもかかる物質の出現を予見し得ないことはいうまでもない。この点につき、原判決が、第二章第三の四の2の項において、松野製剤の存在を知らないということの方がむしろ当然であつたと判示しているのは正当であるといわなければならない。しかし、ここで問題にしている予見の可能、不可能ということは、松野製剤それ自体についてではなく、第二燐酸ソーダの注文に対し、非第二燐酸ソーダが紛れ込みはしないかどうかについての予見可能の問題であることは、すでに説示したところによつて明らかであろう。蓋し、前記のような過誤によつて本件工場に納入されてくるかも判らない非第二燐酸ソーダである薬品は、外観が第二燐酸ソーダに似ていなければ誤つて使用することはなく、外観上第二燐酸ソーダに酷似している場合に誤用を生ずるのであつて、しかもこの種薬品は多数に存在する筈であるから、その性質は全く不明であることに帰し、性質が不明であるということになると、いかなる成分からなる薬品であるかも詳らかでないわけであつて、そのような薬品にはいかなる毒物を含有しているかも判らないことは想像に難くないからである。

もつとも、当審証人高木英典の供述によると、松野製剤は、昭和三〇年当時施行されていた毒物及び劇物取締法(昭和二五年一二月二八日法律第三〇三号)別表第一の八号所定の「砒素、その化合物及びこれらのいずれかを含有する製剤」にあたるというべく、したがつて、同法第二条第一項にいう毒物に該当すると解するのを相当とする。なお、証人楠本正康(元厚生省環境衛生部長)の尋問調書(二六の一二四〇〇)によると、本件発生当時厚生省薬務局は、右松野製剤と同一性質の物質である日軽金産出物が自然物であつて右製剤には該当しないことを理由として、それは同法の取締の対象とならないとの見解をとつていたことが窺われる。ところで、松野製剤が同法に定める毒物としての表示をされないまま、本件工場に納入されたものであることは本件記録によつて明らかであるが、記録によると、松野製剤はまがりなりにも清缶剤等の原料としてならば使用できたのであり、使用方法によつては、さほど猛毒性を有した毒物であつたとも認められないから、松野製剤が毒物であつたからといつて、前記危険の予見が不可能になるとはいえない。

五  本件工場従業員らの業務上の注意義務。

1  以上各項において説示したように、本件工場の従業員らは、協和に対し、正常な工業用第二燐酸ソーダを発注したのに、三回に亘り、非第二燐酸ソーダである松野製剤が納入され、右薬剤には多量の砒素を含有していたのにかかわらず、その事実を知らないでこれを原料牛乳に添加使用するに至り、人体に有害な程度の砒素を含有する乳児用調整粉乳を製造するに至つたこと、工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては非第二燐酸ソーダが納入されこれを使用するに至る危険性があつたこと並びに右危険性は被告人らにとつては予見が可能であつたことが明らかになつたのであるが、果してそうだとすると、本件工場の従業員らは、いかなる措置を講ずれば、松野製剤の原料牛乳への添加使用を防止し得たかを検討しなければならない。

2  (一) まず第一に、本件工場の従業員らが、乳児用調整粉乳の製造にあたり、原料牛乳に第二燐酸ソーダそのものを添加使用さえしなければ、松野製剤の使用を防止し得たことはいうまでもない。ところで、乳児用調整粉乳は第二燐酸ソーダを添加しなければ製造することができないというわけではない。現に、本件発生当時森永乳業株式会社傘下各工場のうち乳児用調整粉乳を製造していたのは、平塚、松本及び徳島の三工場であつたが、(もつとも、昭和三〇年三月頃までは、右三工場の外福島工場においても乳児用調整粉乳を製造していたが、同年四月以降はその製造を中止していた。一七の七七〇四及び同七六七五以下参照)、そのうちで第二燐酸ソーダを添加使用していたのは徳島工場だけであつたことは記録によつて明らかである。しかし、第二燐酸ソーダを原料牛乳に〇・〇一%の割合で添加使用する限りにおいては、第二燐酸ソーダが人体に有害であるとはいえないのであつて、これを原料牛乳に添加使用することは、原判決が第二章第一の二の1の項において説示しているとおり、乳製品製造業者間では一般に承認されていたことであり、たとえ、それが乳児用調整粉乳の溶解度を向上させるためやむなくとられる措置であつたとしても、使用自体はこれを咎めることはできない筋合であるから、被告人らの本件業務上の注意義務を論ずるにあたり、この点は問題にならないというべきである。

(二) (1)  次に考えられる方法は、本件工場の従業員らが、第二燐酸ソーダを添加使用するにあたり、(イ) 局方品を発注購入して使用するか、(ロ) 試薬一級のものを発注購入して使用するか、もしくは、(ハ) 信頼するに足る第二燐酸ソーダの製造業者に対し、食品に添加する旨の用途を告げて一定の規格を示し、その製造方を依頼し、その製品については、第二燐酸ソーダであること(品名)、成分規格及び製造業者の氏名を表示させ、封緘を施させたうえ、製造業者から直接本件工場へ納入させた薬品を使用するか(特別注文である)、以上(イ)、(ロ)及び(ハ)いずれかの方法(以下規格品発注又は使用と略称する)を選ぶということである。なお、この点については、本件公訴事実では、「人体に有害な粗悪品の入荷防止」という表現を用い、原判決では、「第二燐酸ソーダの発注における過失」という形式で判示しているが、結局は、いかなる第二燐酸ソーダを使用すべきであつたかが問題なのであつて、勿論、規格品を使用するためには、その前提として規格品を発注してこれを購入するということが先決問題であるから、右公訴事実の記載も原判決の判示もその意味に理解すべきであることはいうまでもない。

(2)  ところで、検察官は、被告人らの業務上注意義務の内容として、公訴事実で、「局方品、試薬品など成分規格の明らかな薬剤を指定して注文し、或いは製造元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附させるべきである。」と主張しているのである。局方品については問題がない。試薬については、特級と一級との区別のあることは前記第二の三の5の(一)の(2) の項で説示したとおりであるが、工業用第二燐酸ソーダの発注に対し非第二燐酸ソーダの入荷を避ける目的からいえば、試薬の特級であろうと一級であろうと別に差異があるとは思われないから、特級まで注文する必要はなく、一級で足ると認めるを相当とする。製造元・製造過程・仕入経路等を調査し、成分の分析表を添附させるというのは、要するに、信用のおける第二燐酸ソーダのメーカーに特別注文をなす趣旨であると解せられるから、非第二燐酸ソーダの入荷を防止するためには、前記に説示したような方法で特別注文をするのが最も適切な方法であるというべきである。

(3)  さて、第二燐酸ソーダの発注にあたり、よし規格品を指定して注文したとしても、概念的には、前記過誤の起り得ることの考えられるのは、前記第二の三の5の(二)の項において説示したとおりである。蓋し、たとえ、本件工場の協和に対する発注が規格品を指定したものであつたとしても、受注者である協和において、注文の趣旨を取違えて工業用第二燐酸ソーダを納入することもあり、その工業用第二燐酸ソーダ中には非第二燐酸ソーダもあり得るからである。しかし、規格品を指定して注文したのにかかわらず、工業用第二燐酸ソーダが納入されたときは、本件工場の従業員らがこれを原料牛乳に添加使用するにあたり、その外観検査をなすことによつて、それが注文品である規格品と相違することを容易に発見し得る筈であるから、規格品を発注する限り、非第二燐酸ソーダを使用する過誤の如きは、これを避け得たというべきであつて、規格品の発注は決して無意義ではなく、工業用第二燐酸ソーダを発注してこれを使用する以上、非第二燐酸ソーダ使用の危険は避け難いといわなければならない。もし、万一、規格品の発注に対し、局方品もしくは試薬等の表示のある薬品が納入され、しかもそれが非第二燐酸ソーダであるというが如き事態を生じたときには、非第二燐酸ソーダの使用を防止することはできないわけであるが、もはやこの場合には本件工場の従業員らの過失責任を問擬し得ないことはいうまでもない。

(三) (1)  右の外考えられる方法は、本件工場の従業員らが、前記(二)の(1) に記載した規格品以外の第二燐酸ソーダを、原料牛乳に添加使用する前、各容器毎に、それが間違いなく第二燐酸ソーダであるかどうかを確認するため、適切な化学的検査を実施するということであろう。

(2)  ところで、右にいう適切な化学的検査の実施については、本件工場の検査設備及び検査についての態度を検討する必要がある。前記証人田中清一(一七の七六九四)、証人蒔田洋美(元本件工場試験係責任者、一八の八三三四)及び同吉村年(本件工場試験係責任者、一六の七三九六)の各尋問調書、並びに当審第一一回公判期日における被告人小山孝雄の供述を綜合すると、次の各事実が認められる。すなわち、森永乳業株式会社本社においては、技術部(研究、工務、検査の三課)があり、昭和二九年九月頃からは右田中清一が技術部長となり、同人の指揮監督下で、検査課において、製品ことに乳児用調整粉乳については、前記各工場で生産したもののうち、一ロツト(一パツチ)毎に一缶宛取寄せ、水分、脂肪分、バクテリア及びビタミン等の微量成分その他各種の詳細な検査を実施していたけれども、元来食品に有毒物を添加する筈がないことを理由として、製品の毒物検査は全く実施していなかつたのである。各工場とも共通に使用する副原料等で本社において購入するもののうち、必要があるものについては、検査課で検査をしたうえ各工場に送付していた。第二燐酸ソーダについては、局方品もしくは試薬を使用するのが建前であるので、検査課においてこれを検査するようなことはしていなかつたのである。本件工場においては、製造課に試験係が設けられており、昭和二五年五月頃から昭和二八年四月一五日頃までは、蒔田洋美(東京農業大学農学部卒業)が、同年同月一六日頃以降は吉村年(宮崎農林専門学校農産製造学科卒業)が、それぞれ試験係責任者として勤務しており、右各責任者の下に少ないときは一名多いときは三名の補助事務員が配置されていたのであり、製造課長である被告人小山孝雄の指揮監督下にあり、物的施設の面においても、各種検査ことに化学的検査に必要な器具、道具類も一応設備されていたことが窺われる。右試験係は、本社技術部検査課の規模を小さくしたようなもので、原料牛乳の細菌検査及び成分検査並びに製品ことに乳児用調整粉乳の成分、内容量及び細菌等の各検査は、いずれも相当精密に行なわれていたようであるが、副原料については、検査を行なつていたものもあるけれども、全部について丹念に検査をするというわけではなく、ことに毒物検査についてはこれを実行していなかつたし、第二燐酸ソーダについては殆んど検査を行なつていなかつた。もつとも、毒物検査については、元来食品に有毒物を添加する筈がないのであるから、無害なものを選択して使用する以上、これを実施しないのは寧ろ当然のことというべきであろう。

(3)  さて、前記第二の二の2項において説示したとおり、松野製剤の性質が化学上第二燐酸ソーダと著しく性質を異にする物質であること、当審における鑑定人上田武雄(慶応義塾大学教授)及び同伊東半次郎(徳島大学教授)の各鑑定の結果と当審証人上田武雄(第七回公判)及び同伊東半次郎(第八回公判及び第九回公判)の各供述とを綜合して認められるとおり、或る一定の化学的検査を実施すれば、松野製剤と第二燐酸ソーダとの識別は可能であつたこと並びに右に認定したように、本件工場においては一応化学的検査を実施し得る検査機関を有していたこと等に徴すると、被告人小山孝雄が、松野製剤を原料牛乳に添加使用する前、本件工場の試験係をして、松野製剤が第二燐酸ソーダであるか否かを確かめるために、適切な化学的検査を実施させていさえすれば、その目的を達し得たことが窺われる。そうすると、右化学的検査の実施によつて、松野製剤の使用は一応防止し得たというべきである。ところで、右両鑑定人の鑑定の結果は、必ずしも一致せず、上田鑑定人は、松野製剤と第二燐酸ソーダとの識別は相当困難であつたとするに対し、伊東鑑定人は、右両者の識別は容易であつたとするのであるが、いずれにしても識別が不能であるということではない。右両鑑定人の各鑑定の結果及び右両証人の各供述を仔細に検討するに、上田鑑定人の鑑定の結果は、やや慎重に失する嫌いがあるし、伊東鑑定人の鑑定の結果は、或る程度割り切り過ぎた憾みがないではない。

(四) (1)  以上説示したところによつて明らかなように、本件工場の従業員らは、乳児用調整粉乳を製造するにあたり、原料牛乳に安定剤として第二燐酸ソーダを添加使用するときには、松野製剤の如き非第二燐酸ソーダの使用を避けるため、まず第一に前記(二)の(1) に記載したような規格品を発注購入して使用すべき業務上の注意義務があつたのであり、右注意義務に違反して規格品外の工業用第二燐酸ソーダを使用するときには、松野製剤使用防止のために、使用前前記(三)の(1) に記載した適切な化学的検査を実施すべき業務上の注意義務があつたと解するを相当とする。

(2)  もし、本件工場において、工業用第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用するにあたり、右薬品の各容器毎に、常に必ず前記の適切な化学的検査を実施するとしたならば、これから添加使用しようとする薬品が第二燐酸ソーダであることが必ず確認できる筈であるから、松野製剤の使用を防止するためには、右化学的検査を実施すればよい筈であつて、製品の質の向上を図るためというならばともかく、本件業務上過失致死傷の刑責の有無を吟味する点だけから考えると、右化学的検査の外に、前記の規格品使用の業務上の注意義務まで要求するのは不必要な注意義務を課する結果にはならないかとの疑問が生じないでもない。しかし、前記に説示したとおり、森永乳業株式会社本社においても、第二燐酸ソーダの如き薬品を添加物として使用するときには、局方品もしくは試薬等の成分規格の明らかなものを使用することを基本方針としており、工業用第二燐酸ソーダの化学的検査を実施したうえ、これを使用するというようなことは全く予想もしていなかつたし、傘下各工場に対しその旨通達し、そのような指導をしていたこと、前記鑑定人上田武雄の鑑定の結果によると、検査方法の選択如何によつては、松野製剤と第二燐酸ソーダとの識別は必ずしも容易でない場合が起り得ることも窺われること、本件工場の試験係が、物的及び人的施設の面から判断して、松野製剤が第二燐酸ソーダであるか否かを識別するが如き目的のためには必ずしも内容の充実した検査能力を有していたとは認められないこと、並びに本件工場は、乳製品の製造自体については優秀な設備や能力を有していたとしても、薬品については専門外というべきであるから、むしろ薬品の専門家である第二燐酸ソーダの製造業者に一任して規格品を使用するのが安全策であり、その方法を遵守することこそ松野製剤の使用を防止する適切な手段であつたと認められること等に徴すると、本件工場の従業員らには、まず第一義的に規格品を発注購入して使用すべき業務上の注意義務があり、右注意義務に違反して敢えて工業用第二燐酸ソーダを使用する場合には、さらに、化学的検査義務もあつたと解するのが相当であつて、本件工場の従業員らに右二個の業務上の注意義務を認めることは、決して矛盾する考え方でもないし背理でもない。

(五) 本件工場の従業員らに規格品発注(使用)義務及び化学的検査義務のあつたことは、前記説示のとおりであるが、本件工場の従業員らが第二燐酸ソーダーを原料牛乳に添加使用した最終日とされている昭和三〇年八月二三日以前において、右の点に関する食品衛生法による規制はどうであつたかを検討することとする。食品添加物についての同法の取締規定は、同法四条二号、六条及び七条等であるところ、右各法条は、本件発生の前後を通じて同一であつて、何ら変更せられていないのである。

前記証人金原松次(六の二五三八、九の四一一九、一一の五〇五八)、同楠本正康(二六の一二四〇〇)及び証人恩田博(厚生技官、厚生省環境衛生局乳肉衛生課勤務、二六の一二五六八)並びに押収にかかる「食品に添加する化学薬品の規格に関する通牒の写送付について」と題する書面中、「飲食物に添加する石灰類の取扱について」、「中華麺製造に使用するかん水の取扱について」、「豆腐製造に使用する硫酸カルシウムについて」、「食品衛生法施行規則及び告示の改正について」とそれぞれ題する各書面(証六五号の一ないし四)を総合すると次の各事実が認められる。

すなわち、乳製品に混和する添加物は、同法六条に規定する化学的合成品及び調整粉乳における厚生大臣の承認を受けた微量栄養素以外は、人体に有害でない限り、特に規格基準は制定されていなかつたのである。本件発生以前においては、乳製品製造等についての取締の立場にあつた厚生省当局は、同法六条にいわゆる化学的合成品は、化学的手段によつて新しい物質を作り、もしくは新しい物質に変化(分解以外の一切の化学変化)させてできた物質であるとし、第二燐酸ソーダは、ビタミンB1、砂糖、食塩等と同様に天然物であると解していたため、右の化学的合成品には該当しないと解釈していたのである。したがつて、第二燐酸ソーダを食品に添加するについては、取締法規上は局方品等の規格品を使用すべきことを命じた規定はなかつたのである。

ところが、本件発生直後である昭和三〇年八月三〇日厚生省令第一五号をもつて、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和二六年一二月二七日厚生省令第五二号)の一部を改正して、乳製品のうち、無糖練乳、加糖練乳、加糖脱脂練乳、全粉乳、脱脂粉乳、加糖粉乳及び調整粉乳には、薬事法による公定書に収載されている医薬品であつて公定書に定める基準に適合したもの、または厚生大臣の承認したもの以外のものは、添加物として使用してはならないと定めたのであつて、その後においては、第二燐酸ソーダ等も同法六条の化学的合成品に該当するとの立場をとるに至つたのである。右省令の改正は、従来の取締法規の不備の点を整備したものであるというべきであろう。

同法六条によれば、化学的合成品である以上、人の健康を害う虞のない場合として厚生大臣が定める場合を除いては、これを食品添加物としては使用できないのであるが、第二燐酸ソーダを化学的合成品と解しない限りは、厚生省令による成分規格の制定の行なわれることはなかつた筈であり、また、第二燐酸ソーダが同法四条二号本文にいわゆる有毒な又は有害な物質が含まれもしくは附着しているものと解せられない以上は、同条による使用等の禁止の対象にもならないといわなければならない。しかし、第二燐酸ソーダが天然に存在する物質であるとしても、現実に薬品業界に出廻つている第二燐酸ソーダは化学的に製造されるのであるから、化学的合成品を右のように解釈することについては、疑問がないわけではないのであるが、尠なくとも本件発生以前においては、厚生省当局は右のように解釈していたことが窺われるのである。

元来、化学的合成品である食品添加物の品質については、同法七条一項に基づき、厚生大臣がその成分規格を告示すべきであるが、右のような薬品は多数存在し、全部について一々検討することが容易でないため、厚生省としては、規格の定められていないものについては、局方品、日本工業規格の試薬一級以上のものを使用するよう指導していたのである。そして、前記化学的合成品に該当しないため、厚生大臣がその成分規格を定めない薬品、すなわち、第二燐酸ソーダ等については、食品製造業者の良識に基づく自主規制に委ねられていたと解せられるのである。したがつて、森永乳業株式会社本社が、第二燐酸ソーダ等の食品添加薬品については、局方品を使用するのを建前としていたことも決して理由のないことではない。(前記第二の四の2の(四)の(3) 参照)。しかし、厚生省当局としても、規格は制定していないにせよ、薬品を食品に添加するのであるから、なるべく局方品、試薬一級もしくはこれに準ずる純良な薬品を使用することを期待し、都道府県の食品衛生取締担当の係官等が集つた会議の席等においては右の旨を伝え、各食品製造業者を指導するよう希望していたことも窺われるのである。そうすると、形式的には、本件発生を契機として、乳製品に安定剤として混和使用する第二燐酸ソーダ等についての取締態度を豹変したかのように見えるけれども、実質的には、従来厚生省当局が乳製品製造業者の良識に期待していたことを、法によつて規制したとも見られないことはないのである。

本件工場の従業員らが、松野製剤を原料牛乳に添加使用した当時においては、食品衛生法によつては、規格品を使用すべきことを義務づけられていなかつたことは、前記説示によつて明らかであるが、しかし、そうであるからといつて直ちに規格品発注(使用)義務がなかつたと速断することはできない。本件工場の従業員らは、行政上の取締規則に従つていたというだけでは、業務上の一切の注意義務を尽したものということはできない。(大正三年四月一六日大審院判決、刑録二〇輯五七四頁、同年四月二四日大審院判決、刑録二〇輯六一九頁、昭和三二年一二月一七日最高裁第三小法廷決定、最高裁判例集一一巻一三号三二四六頁各参照)。

3  (一) 或いは、稀にしか発生しない過誤、すなわち、工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては非第二燐酸ソーダが納入されるかも判らないというようなことまで予想して、本件工場の従業員らに規格品使用義務を課したり、化学的検査義務があるとするのは、失当であるという議論も考えられないことはない。工業用第二燐酸ソーダの発注に対し非第二燐酸ソーダの納入されるというような危険は常に発生することでないことはいうまでもないが、しかし、極めて稀にしか発生しないことであると言いきれるものではなく、往々発生するものであることはすでに説示したところによつて明らかである。論者のいうように、かりに、右危険が稀にしか発生しないものであるとしても、その予見が可能である以上、食品製造業者が右危険を無視してよいかどうかは問題である。我々は、物質文明の進歩発達にともない、社会生活の環境が複雑になればなるほど、常に何らかの原因による多くの危険に直面しているといつても過言ではない。我々は、危険の発生率の高いときにはこれを避けるために万全の策を講ずるであろうが、これに反して危険の発生率が極めて小さいときには、これを無視して行動することもあるであろう。しかし、危険の発生を無視してまで敢えて行動するのは、これを無視しなければ社会生活に著しく支障が起る場合であるからであつて、危険の発生を無視することなく、それを防止する措置をとつても、このことが毫も社会生活に影響を及ぼさないときには、よし危険発生率が小さくても、これを無視しないで慎重に行動するのが良識ある一般人の態度であろう。例えば、大暴風雨で視界の全くきかないような悪天候の場合には航空機の運行は中止されるであろうが、気象条件としては飛行には必ずしも適当ではなく、天候のために、極めて小さな確率ではあるが、危険の発生が予見できてもなお敢えて運行するのは、そうしないと航空機の運行できる日は極めて尠なくなつて、航空事業の本来の目的を達し得ないことになるからに外ならない。しかし、我々は、危険の発生率を最少限度に食いとめるようにしなければならないのは当然のことであつて、それが人間の知性なのである。

さて、本件の場合においても、危険の発生率が小さいからということを理由として、これを無視して行動することが果して許されるであろうか。本件の場合においては、右にいう危険発生の避止は極めて容易であつたのである。すなわち、規格品を使用することにより、飛行条件に最も適した天候のよい日だけの運行を選択することができたのであり、また、そうすることにより本件工場の業務には何らの支障も起らなかつたのであつて、かかる状況の下にあつたのにかかわらず、工業用薬品を使用することにより、危険な悪天候の日の運行までする必要は毫もなかつた筈であるといわなければならない。規格品を使用したり、簡単な化学的検査をするために、莫大な資金を要するわけでもないし、複雑な器具、器械を必要としたわけでもなく、多くの労働力を必要としたわけでもない。ただ、本件工場の従業員らの細心の注意が必要であつただけである。まして、食品製造業者は、食品に有害物を混入してはならないことはいうまでもないことであつて、そのために極めて高度な注意義務が要求されるのは当然のことであるから、たとえ危険の発生率が小さかつたとしても、危険の発生が予見できる以上、これを防止するため、規格品を使用したり、適切な化学的検査をなすべき業務上の注意義務があるとしても、毫も本件工場の従業員らに苛酷な注意義務を課することにはならないというべきである。

(一) (1)  なお、本件公訴事実中には、「人体に有害な物質の混入を完全に抑止すべき業務上の注意義務がある」と記載されており、その解釈をめぐり、原審において釈明が繰返されたのみならず、当審においても訴因に関連して検察官から意見が述べられているので、右の点について当裁判所の見解を明らかにしておくことも無意義ではない。

(2)  食品は、人間が医薬として摂取するもの以外の、すべての飲食物のことであつて(食品衛生法二条一項参照)、人間が生きてゆくため、日常絶対不可欠のものであり、生命維持の要素をなすものであるから、必ず適当な栄養価値を有するとともに、人の生命、身体、健康に危害を及ぼすようなものであつてはならない。もし、或る食品が、人体に有害な程度の毒物を含有していたり、病原微生物によつて汚染していたり、または腐敗によつて変質していたとしたならば、栄養価がいかに優れた食品であつても、そのような食品は、もはや食品としての存在価値がないだけでなく、その存在を許してはならないのである。したがつて、食品製造(加工)業者及びこれに従事する者は、食品の製造、加工にあたつては、その食品の栄養価を確保するだけでなく、絶えず、食品の原材料、添加物、器具及び容器、包装等の衛生面に留意し、飲食物の変質、汚染及び有毒物の混入を防止し、前記のような不良飲食物によつて惹き起される虞のある危害の発生を未然に防止しなければならないこと、すなわち、有害物混入防止義務のあることは、条理上当然のことであつて、特に食品衛生法の規定を俟つまでもないことである。

しかし、このような抽象的注意義務は、一般家庭の主婦が食物を調理するにあたつても用いなければならない注意義務と同一であるというべきである。さらに、有害物混入防止義務という点だけから考えると、このような義務は、食品製造業者及び食物を調理する一般家庭の主婦だけでなく、一般人も負担している義務であるというべく、過失犯に特有なものでなく、故意犯にも共通することであつて、もし故意に食品に有害物を混入して人に致死傷の結果を発生させれば殺人罪もしくは傷害罪を構成するのであり、過失によつて食品に有害物を混入させて人に致死傷の結果を与えれば過失致死傷罪を構成するのである。したがつて、食品製造業者の業務上過失致死傷罪の責任の有無を論ずるにあたつて、右抽象的な有害物混入防止義務を恰も業務上注意義務それ自体であるかのように考えることは誤りであるといわなければならない。

(3)  およそ、業務上過失致死傷罪における業務上の注意義務は、被告人らが、具体的に、いかなる作為をなすべきであつたか、もしくはいかなる作為を避止すべきであつたのにこれを避止しなかつたかという形で取上げられるのである。本件で問題になつているのは、第二燐酸ソーダの添加使用によつて、乳児用調整粉乳中に人体に有害な程度の砒素(毒物)を含有するに至つたことを防止するために、被告人らが、具体的に、いかなる作為をなすべきであつたか、もしくはいかなる作為を避止すべきであつたかということが、本件業務上過失致死傷罪におけるいわゆる業務上注意義務の内容なのである。すなわち、検察官の主張する規格品発注(使用)義務及び化学的検査義務が、まさに右本件業務上注意義務に該当するのである。言葉を換えていうならば、有害物混入を防止する目的のために、規格品発注(使用)とか化学的検査という業務上の注意義務が要求されるのである。もし、食品製造(加工)業者は、一切の有害物混入防止義務があるから、右具体的な各注意義務があるというようなことがいえるとすると、それは、自動車の運転者は、交通事故の発生を防止すべき注意義務があるから、徐行義務があつたというのと変りはないことになるであろう。右徐行の注意義務は、例えば、当該場所が小学校の校門前であり学童の下校時であつたから、学童が何時飛び出してくるかも判らないという状況にあつたということを基本事実として発生するのであつて、一般的、抽象的な交通事故防止義務を直接原因として発生するのもではない。本件でも、検察官の主張する「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」中には、検察官主張のような理由で有害物を含有しているかも判らないということを、注意義務発生の基本事実として、規格品発注(使用)義務や化学的検査義務が具体的に発生するのであつて、抽象的、一般的な一切の有害物混入防止義務の存在することを直接的な基本事実として、右具体的な各注意義務が発生するのではない。

然るに、検察官が、公訴事実中に、恰も一切の有害物混入防止義務が本件の業務上注意義務であるとなし、これが基本事実となつて、規格品発注義務や化学的検査義務が発生するかのような記載をしているのは妥当でなく、却つて無用な論争を招いた原因となつたわけである。しかし、前記第一に掲げた本件公訴事実によると、「殊に右薬剤が本来食品に使用される性質のものではなく、……往々にして人体に有害な砒素その他の物質を多量に含有する粗悪品のある場合もあるから」ということを基本事実として、規格品発注(使用)義務や化学的検査義務のあることが摘示されているから、本件訴因の明示としては要件を充足しているというべきであつて、公訴事実中に、「人体に有害な物質の混入を完全に抑止すべき業務上の注意義務がある」と記載したところで、その一切の有害物混入防止義務たるや前記に説示した程度の意義しか有しないのであるから、右のような記載があるからといつて、直ちに訴因の特定を欠くに至るとは考えられず、したがつて、公訴提起の手続が無効であるといえないことはいうまでもない。

六  これを要するに、検察官の主張する前記第二の一の1及び同二の1の(一)ないし(三)記載のような理由によつては論旨の採用できないことは、前記第二の一及び二の各項において詳細に説示したところによつて明らかである。しかし、本件工場の従業員らにおいて、工業用第二燐酸ソーダを発注するきとには非第二燐酸ソーダが納入され、これを原料牛乳に添加使用する虞があり、しかもその予見が可能であつたから、本件工場の従業員らには規格品発注義務があると認めるのを相当とすべきことは前記第二の三ないし五の各項で詳細に説示したとおりである。然るに、原判決は、第二章第三の四の2の項において、第二燐酸ソーダの発注に対し非第二燐酸ソーダの納入される虞のあることを一応肯定しながら、この点については明確な判断を示していない。しかし、原判決が規格品発注義務の存否について判示した判文の全趣旨に徴すると、右のような場合には客観的に到底予見が不可能であつたと判断したものであると認めざるを得ない。もつとも、この点に関する原判決の判断の論理には一貫しないものがあることは、後記第四の五の項において説示するとおりである。そして、原判決は、第二章第三の五の項において、本件工場の従業員らが、協和から第二燐酸ソーダを購入しようとする際には、「第二燐酸ソーダを納入してもらいたい。」といつて注文する以上、それに付け加えて、人体に有害な粗悪品の入荷を防止するため、規格品を発注すべき業務上の注意義務が注文者側にあるとは、こと亜砒酸による傷害という点に関する限り、到底考えることのできないところである、と判断して、本件工場の従業員らの規格品発注義務を否定したのである。してみると、原判決は、事実を誤認し、ひいて法令の解釈を誤つた違法があるといわなければならない。

第三控訴趣意第二点(控訴趣意補充書第一の二)について。

一  所論は、被告人らが、協和に対し、第二燐酸ソーダを注文する際、規格品を明示して発注したか否かを決するにあたり、原判決が、協和と本件工場との間の売買取引価格は、当時の第二燐酸ソーダ試薬一級品の一般小売価格と近似していることのみを挙げて、本来比較対照されるべき価格は、協和の試薬一級の小売価格であることを看過し、協和から本件工場に対し九回に亘り納入された正常な第二燐酸ソーダの品質が、実質的には局方品や試薬品に比しても全く遜色のないものであつたと認定し、試薬一級を注文したのではないかと推測されるとしたのは失当であるし、また、論旨一なしい五で指摘する各事実等も併せ考えると、本件工場側の各証人及び被告人小山孝雄の各供述は信用できなく、協和側の各証人の供述は措信できるのであつて、同証人らの各供述によると、被告人らが、協和に対し、当初第二燐酸ソーダを注文する際に、試薬一級の指定はしなかつたのであり、したがつて、松野製剤の発注の際も、工業用第二燐酸ソーダの納入を求めていたと認定し得るにかかわらず、原判決は、何ら合理的な理由を示さないで、協和側の各証人の供述を排斥し、右の事実を認めるに足る証拠がないとしたのは、採証の法則を誤り、ひいて事実を誤認したものであるというのである。

二  原判決の立場、すなわち、本件工場の従業員らが、協和から第二燐酸ソーダを購入しようとする際、規格品を指定して注文すべき業務上の注意義務はないとの考え方に立つときは、その注文の仕方がどうであつたかを検討することは、被告人らの本件過失責任の有無を判断するにつき無意味であることは、原判決が説示するとおりである。しかし、本件工場の従業員らに、第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用する際、規格品を発注購人して使用すべき業務上の注意義務のあることは、前記第二の五の各項において説示したとおりであるから、本件工場従業員らの協和に対する第二燐酸ソーダの注文の仕方は、原判決のいうように無意義なことではなく、極めて重要なことであるといわなければならない。よつて、記録を精査し、以下順次検討することとする。

三  1 原判決第二章第一の二の2の(二)掲記の各証拠を綜合すると、次の各事実が認められる。すなわち、本件工場が、乳児用調整粉乳の製造にあたり、安定剤として第二燐酸ソーダを本格的に添加使用するようになつたのは昭和二八年四月以降であるが、本件工場から協和に対する第一回目の第二燐酸ソーダ発注の経緯は、同年同月上旬頃、被告人小山孝雄が製造課副主任山本薫に第二燐酸ソーダの購入方を命じ、同人は事務課資材係井上邦夫にこれを伝達し、同人は協和の外交員岩田浩一と協和の社長今津定に交渉し、第二燐酸ソーダ三五瓩入りの木箱二個を注文して第一回目の取引が行なわれるようになり、第二回目以降の取引については、被告人小山の指示により、右井上から協和の今津社長もしくは店員に対し、電話により、「第二燐酸ソーダ木箱入り二箱を納入して貰いたい」という旨を伝えて第二燐酸ソーダの発注をし、その結果、本件工場と協和との間には、原判決添附の別表第四記載のとおり、昭和二八年四月一一日頃から同三〇年七月二六日頃までの間、前後一三回に亘り、同表記載の数量の薬剤が同表記載の代金で売買されたのであるが、第一回目ないし第九回目及び第一二回目の各取引は、いずれも米山化学工業株式会社製造にかかる正常な工業用第二燐酸ソーダ(以下正常薬剤と略称する。原判決五〇丁裏九行目参照)であつたけれども、第一〇回目である昭和三〇年四月一三日頃の分、第一一回目である同年同月三〇日頃の分、第一三回目である同年七月二六日頃の分は、正常な第二燐酸ソーダではなく、松野製剤であつたことは、すでに前記第二の一の3の(二)の(3) の(ロ)の項で説示したとおりである。

2 さて、本件で問題になつているのは、右第一〇回目、第一一回目及び第一三回目の松野製剤の各取引であるから、本件工場の従業員らに注文義務の違背があつたかどうかの点が取上げられるのも、右三回の取引に限られるといわなければならないのであり、その各注文に際し、本件工場の従業員らは、右1に説示したとおり、特に局方品もしくは試薬一級のものを納入せられたい旨、すなわち、形式的には規格についての明白な指定はしていなかつたことが認められる。

ところで、本件工場が協和との間に第二燐酸ソーダの取引をしたのは、前記のとおり、約二年間で前後一三回に及んでいることに徴すると、松野製剤の納入せられた第一〇回目、第一一回目及び第一三回目の各取引の行なわれた際の注文の実質的内容は、第一回目の注文の態様と無関係であるとはいえないが、しかし、第一回目の注文のとき継続的な取引契約を締結したわけではなく、各取引はそれぞれ別個独立の取引であるし、第六回目と第七回目との各取引の間には五ケ月以上も経過していたことがあること等から考えると、第一回目の注文の際附せられていた条件がそのまま第一〇回目の注文にも附せられていたと解するには疑問があり、むしろ、第一回目の注文にその後の取引間に生じた客観的事情をも加味して、松野製剤が納入せられた際の発注が規格品を指定して行なわれた注文であつたか否かを判断すべきである。

四  1 本件工場の従業員らが協和に対し第一回目の注文をしたときの交渉の経過については、被告人小山孝雄(三八の一六九二一)、証人山本薫(本件工場製造課副主任、一六の七一四三)は、資材係の井上邦夫に、局方品の大箱三五瓩入り二箱を注文せよと命じたが、薬屋に局方品の大箱入りは扱つていないというので、試薬三五瓩入り大箱二個の注文を命じたとそれぞれ供述し、前記証人井上邦夫(一六の七三〇八)は、協和の店員岩田に対し、局方品の第二燐酸ソーダを注文したのであるが、岩田は、「協和では大箱入りの局方の第二燐酸ソーダは取扱つていないが、試薬一級なら手に入るから入れさせてくれ、値段は一瓩当り、試薬一級ならば二〇〇円、工業用品ならば一二〇円位である」というので、山本に連絡したうえ、同人及び被告人小山の諒解を得て、岩田に、試薬一級でよいから三五瓩入り大箱二個を納入して貰いたい、と伝えた旨供述し、証人岩田浩一(昭和二八年一二月頃まで協和の店員、一五の六六九七)は、注文取りのため森永工場資材係に顔を出したところ、井上から、「第二燐酸ソーダが多少入用だがどれ位するか」と尋ねられたので、工業用と試薬大入りの大体の値段を伝えた。すると、「値段を検討してみて値段があえば注文する」ということで別れた旨供述し、前記証人今津定(一三の六〇四〇)は、外交員岩田浩一から、第二燐酸ソーダが森永で入用だという報告を受けたので、森永に、「問合わせの第二燐酸ソーダの大入りは工業用しか取扱つていないがどうか」と問い合わせたところ、「よい品ですか」といわれたので、「自分の方ではよく判らないから、一応使つてみてくれないか、もし都合が悪ければ取り替えるなり返品してくれ」と答えた。値段を尋ねられたので、自分の経験した試薬から割り出して値段を伝えた。それでは使つてみようということになり、木箱二箱の注文があつたが、メーカー、純度、包装の指定もなかつた。試薬の値段はメーカーによつて多少相違するが、当時の試薬の値段を考え合わせてその三分の一位にした、と供述しているのであつて、右各供述を比較すると、本件工場側の者の各供述と協和側の者の各供述ことに今津定の供述とは鋭く対立していることが窺われるのである。そうすると、本件工場の従業員らが、協和に対し第一回目に第二燐酸ソーダを注文するにあたり、試薬一級と指定したかもしくは単に第二燐酸ソーダといつただけで試薬一級の指定をしないで注文したかについては、その取引の衝に当つた各関係者の供述だけを資料として判断するのは困難であつて、右各供述以外の他の資料によつて認められる諸般の事情をも綜合して判断しなければならないことはいうまでもないが、まず右各証人らの供述を主軸として検討をすすめることとする。

2 (一) 被告人小山、証人山本及び同井上は、前記のよりに、いずれもまず局方品を注文したと供述する。しかし、証人岩田の各供述記載(一五の六六九七、二六の一二二五八、二七の一二六九九)からは、井上が岩田にまず局方品を注文したというような事実は窺われない。

(二) 右の点について、被告人小山孝雄は、本件工場においては、第二燐酸ソーダの局方品を使用したような事実は全くないのにかかわらず、警察官及び検察官から取調を受けた際(昭和三〇年八月二八日以降同年一〇月二六日までの間に、司法警察員からは六回、検察官からは一〇回取調を受けている。三七の一六五四八ないし一六六七四)には、局方品を発注購入してこれを使用したと供述しており、本件工場においては、昭和二八年四月よりも以前から第二燐酸ソーダを使用しているにかかわらず、昭和二八年四月以降使用したと供述している。

本件工場において製造した乳児用調整粉乳中に人体に有害な多量の砒素を含有していることが判明した後、その原因を探究していた頃、本社から被告人小山に添加物を持参して岡山医大に行くよう連絡があつた際にも、厚生省に添加物として届けられている添加物は持参したけれども第二燐酸ソーダはこれを持参していないこと(三八の一六九六六以下)、そのとき、本社の田中技術部長も被告人小山と同行したのであるが、その際同部長から、乳児用調整粉乳の製造について、何か変つた方法はとつていないかと聞かれたときにも、第二燐酸ソーダを添加使用していた事実は全くこれを報告していないこと(三七の一六六二三)並びにその後右田中技術部長から被告人小山に電話があつた際、「第二燐酸ソーダは確かに局方を指定して使つているのだろうな」と念を押されたときにも、試薬一級を使用しているとはいわないで局方品を使用していたと報告していること(三八の一六九七六)が認められるのである。

右各事実に徴すると、被告人小山は、当初は第二燐酸ソーダを添加使用していたことは、なるべくならばいいたくないというような気持になつていたのではないかということが窺われるし、さらに、その後においては極力局方品を使用していたというように強調しようとしていたことが窺われるのであつて、右各事情から考えると、被告人小山が、「当初山本に局方品を注文せよと命じた」という供述も、極めて疑わしいといわなければならない。

(三) 山本薫の司法警察員に対する昭和三〇年九月三日付供述調書(二四の一一四〇三)によると、同人は、「小山からは、工業用を使つたらいけないとか、局方でなければいけないとかの具体的な指示は受けていない。ただ良質のものを使えといわれたので私が独自の考えで注文したのである。」旨供述していることが認められるのであつて、右事実に徴すると、証人山本が、小山から局方品を注文せよとの命令を受けたので、井上に局方品を購入するよう指示した旨供述している部分は、にわかに信用できないといわなければならない。

(四) 証人井上邦夫の前記供述も、同人の司法警察員に対する昭和三〇年八月三〇日付及び同年九月四日付各供述調書(二四の一一四一一、一一四二九)に照して、直ちにそのまま信用し難いといわなければならない。

(五) 前記証人蒔田洋美(一八の八三三四)、証人橋本只義(黒崎器械店々員、一八の八五六二)及び前記証人阿下武雄(一八の八五九四)の各供述調書並びに押収にかかる振替伝票四葉(証七九号)、同一葉(証八〇号)及び請求書綴一綴(証八一号)を綜合すると、本件工場においては、被告人小山の発案により、昭和二五年六、七月頃から同二七年秋頃まで、乳児用調整粉乳の溶解度を向上させ他社よりも優秀な製品を製造する目的で、原料牛乳に対し、その重量の〇・〇一%の割合で、安定剤として第二燐酸ソーダを添加するという方法による調整粉乳の試験的製造を実施したのであるが、この間右研究の中心となつた当時本件工場製造課試験係責任者であつた蒔田洋美は、右試験的製造に使用する第二燐酸ソーダを入手するにあたり、昭和二五年七月四日頃、徳島市内の黒崎器械店々員橋本只義に対し局方の第二燐酸ソーダを注文したところ、局方品がなかつたため、試薬一級の第二燐酸ソーダ一瓩(五〇〇瓦入瓶二本でいずれも石津製薬株式会社製)を代金合計三六〇円で購入し、次で、大阪薬品株式会社徳島出張所(昭昭三二年一〇月には徳島大薬株式会社と改組)従業員阿下武雄に対し局方品の第二燐酸ソーダを注文したところ、局方品がなかつたため、昭和二六年三月三〇日頃試薬一級の第二燐酸ソーダ三五瓩(本箱入り一箱で石津製薬株式会社製)を代金七、七〇〇円で購入し、同年四月一一日頃には、試薬一級の第二燐酸ソーダ七〇瓩(三五瓩入り木箱二箱で、いずれも石津製薬株式会社製)を代金合計一六、一〇〇円で購入して、いずれもこれを右試験的製造期間中に原料牛乳に添加使用したことが認められるのである。

右各事実に徴すると、本件工場が、従来第二燐酸ソーダを原料牛乳に添加使用するにあたつては、まず局方品を注文し、局方品がなかつたため、試薬一級を購入するに至つたことを認めることができるのであるが、しかし、前記証人蒔田洋美及び同片岡哲(一八の八五〇〇)の各供述調書によると、蒔田がまず局方品を注文し、局方品がないために試薬一級を購入したのは、蒔田が、自分自身の考えや、片岡哲の助言によつたものであつて、特に被告人小山の指示があつたというような事情は窺われない。被告人小山は、右の際にも、局方品を購入するよう希望した(三八の一六九四六)というが、右供述はたやすく信用できない。そして、本件工場が協和に対して第一回目の発注をしたのは、専ら被告人小山及び前記山本薫の指示に基づくものであつて、蒔田は右の発注には何ら関与していないことも看過できない事情である。もつとも、この点に関連して、前記証人蒔田洋美(一八の八四二七以下)は、昭和二七年七月頃、協和に立寄り、社長今津に対し、第二燐酸ソーダの局方品大箱入りを捜してくれと依頼したというが、かりに、右事実が認められるとしても、協和に対する本件第一回目の発注とは直接関係がないというべきである。なお、被告人小山らは、本件工場においては、第二燐酸ソーダを購入するときには、常にまず局方品を注文したというが、従来局方品を購入したことは一度もないのであり、局方品入手について、本社技術部に照会する等その他適切な方法を講じた形跡も全く認められないのであつて、右の事実に徴すると、山本、井上及び被告人小山らが、協和に対し第一回目の発注をするとき、まず局方品の有無を尋ねたということを強調するのは、本件発生後言い始めたのではないかとの疑さえあつて、これをそのまま信用するのには躊躇せざるを得ないのである。したがつて、森永乳業株式会社本社が局方品を使用することを方針としている(前記第二の四の2の(四)の(3) 参照)とか、本件工場において従来局方品を注文していたからといつて、直ちに本件においても、まず局方品を注文したとなすのは早計であるといわなければならない。

3 証人井上邦夫の前記四の1に記載した供述から考えると、同人が岩田に対し、局方品の大箱入りはないかといつたのに対し、岩田が、局方品の大箱入りは取扱つていないが、試薬一級なら取扱つているから入れさせてくれ、試薬一級の値段はいくらである、と答えたというのであれば、話は判るのであるが、試薬一級の値段のみでなく、工業用品の値段まで教えたというのは理解に苦しむ点である。ところで、証人岩田浩一の前記四の1に記載した供述によると、岩田は井上に対し工業用品の値段をも告げたことが認められるので、この事実に徴すると、岩田の供述するとおり、井上が局方品とか試薬一級の規格を示さないで、大箱入りという点に力を入れて、単に第二燐酸ソーダの値段を聞いたために、岩田が工業用品と試薬一級との値段を示したのではないかとも推測されるのである。また、証人井上の前記供述によると、同人は、岩田との交渉の途中において、被告人小山及び前記山本のいた工務室に赴き、局方品はなく試薬一級ならばあるがということを連絡して、右両名から試薬一級でよいから注文せよといわれたので、岩田に試薬一級を注文したというのであるが、岩田の各供述(一五の六六九七、二六の一二二五八、二七の一二六九九)を仔細に検討しても、井上と岩田との間の交渉の過程において右のような場面があつたことは全く窺われないし、却つて、前記証人今津定の供述(一三の六〇四〇)によると、井上が今津と電話で交渉している途中において、前記のような場面があつたのではないかということが窺われるのである。また、井上の供述によると、同人は、岩田と交渉した際、すでに試薬一級二箱を注文したというのであるが、岩田の供述によると、同人は値段を聞かれただけで未だ正式の注文を受けたのではないと供述しており、この点においても、井上と岩田との供述は相違しており、岩田の供述と今津の供述とによると、むしろ、井上が今津と電話で交渉した際、正式に発注が行なわれたのではないかという疑問も生ずるのである。

五  1 昭和三九年八月二五日付弁護人海野普吉外三弁護人作成にかかる答弁書四一丁ないし四三丁掲記の各証人の尋問調書を綜合すると、昭和二八年ないし同三〇年当時における試薬一級の第二燐酸ソーダ大箱入り一瓩当り卸売価格は約一四〇円ないし一八〇円位であり、同小売価格は約一六〇円ないし一八〇円位であり、工業用第二燐酸ソーダ大箱入り卸売価格は一瓩当り約七〇円ないし一〇〇円位であり、同小売価格は一瓩当り約七〇円ないし一一〇円位であつたことが認められる。ところで、本件工場の協和からの買入価格は、原判決添附の別表第四記載のとおり、一瓩当り、第一回目の分が一九五円であり、第二回目及び第三回目の分がそれぞれ一八八円であり、第四回目ないし第一三回目の分はいずれも一七〇円であることが認められる。そうすると、右売買価格は、まさに試薬一級の価格に相当し、工業用第二燐酸ソーダの木箱入りの一般の小売価格として、著しく高価であつたことは、原判決説示のとおりであるといわなければならない。

2 前記証人今津定の各供述調書(一三の六〇四〇、一四の六五六三、一五の六八一六、六九九一)によると、同人は、第一回目の取引単価を一瓩当り一九五円としたのは、井上と電話をした際咄嗟に決めたのであつて、その算出の根拠は、当時協和で取扱つていた五〇〇瓦瓶入り試薬一級の第二燐酸ソーダの価格を二倍した金額の三分の一位として決めた旨供述していることが認められる。ところで、証人今津定の右各供述調書、押収にかかる協和の売掛帳四冊(証七〇号のA・B・C・D)を綜合すると、協和においては、昭和二八年四月一一日頃工業用第二燐酸ソーダ三五瓩入り二箱を本件工場に納入するより以前には、第二燐酸ソーダについては、試薬一級は勿論、工業用品についても、木箱入りのものを取引した実績は全くなく、ただ、試薬一級もしくは特級の瓶入り(五〇〇瓦入りが大部分)のものだけを取引していたに過ぎなかつたことが認められるから、今津が井上から電話で木箱入りの値段を聞かれたとき、試薬一級であろうと、工業用であろうと、いずれにしても何らかの方法で木箱入りの一瓩当りの値段を算出しなければならなかつたことは、やむを得ないことであるといわなければならない。

さて、前記証人岩田浩一の各供述(一五の六六九七以下、二六の一二二五八以下、二七の一二六九九以下)、同今津定の供述(一五の六九九一以下)及び押収にかかる見積書二通(証六三、六四号)を綜合すると、協和の外交員岩田は、協和の社長今津と相談のうえ、昭和二八年二月一七日には関東化学株式会社大阪支店名義で、同年同月二五日には協和産業株式会社名義で、いずれも四国電力株式会社小松島発電所に対し、第二燐酸ソーダその他の薬剤の見積書各一通を提出したのであるが、同見積書にはそれぞれ第二燐酸ソーダ一〇〇瓩入りのものの一瓩当りの単価を一二〇円宛と記載しており、右は工業用第二燐酸ソーダの単価であるところ、岩田は、同年四月上旬頃本件工場の資材係である前記井上邦夫から、第二燐酸ソーダについての交渉を受けた際、同人に対し、工業用第二燐酸ソーダの値段については、前記の四国電力株式会社小松島発電所に提出した見積書に記載した価格に基づき、一瓩当り一二〇円である旨を告げ、試薬一級木箱入りはこれまで取扱つたことがないので、おおよその価格として一瓩当り二〇〇円位である旨述べたことが認められるのである。また、前記証人今津定の供述(一五の六八九八)によると、今津は、右の頃よりも以前に、日本化学産業株式会社から、工業用第二燐酸ソーダの大箱入りの買入価格の見積を徴していた事実のあることが認められる。右の各事実に徴すると、今津は、工業用第二燐酸ソーダの大箱入りの値段も大体判つていた筈であるから、前記のような迂遠な計算方法をとらなくてもよかつたのではないかとの疑問が生ずるのは当然である。しかし、今津が、前記日本化学産業株式会社から見積りを徴していたのは昭和二六、七年頃の古いことであつたし、前記小松島発電所に提出した見積書に記載した分とても、現実には取引が行なわれたわけではなく、見積価格の点についても岩田から相談は受けたものの、見積書の作成やその提出は岩田に一任してあつたことが窺われるから、今津が右の各事情を失念していたとしても必ずしも不思議ではない。

そうすると、今津の前記計算方法は、一見いかにも不自然なようではあるが、しかし、五〇〇瓦瓶入りの試薬の値段を二倍したというのは、一応一瓩当りの単価に換算したということであり、それは試薬瓶入りの一瓩当りの価格であるのに、現実に取引しようとしているのは工業用薬品(今津の積りでは)であり、しかも大箱入りであるため、右価格の三分の一位の金額をもつて現実の取引値段として決めたということに帰着するのであるから、その趣旨は必ずしも理解できないことではないのである。

そうだとすると、次に考えてみなければならないのは、その当時の協和における第二燐酸ソーダの試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の取引価格はいくらであつたかという点である。前記各証拠によると、昭和二六年ないし同二八年頃における協和の第二燐酸ソーダ試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の仕入価格は、殆んどすべて一五〇円位であり、右瓶入り一本当りの小売価格は、昭和二六年頃は一八〇円ないし二三〇円位であり、昭和二七年頃は概ね一九〇円ないし二三〇円位であり(昭和二七年一〇月二九日に徳島大学医学部へ販売したものに三〇〇円というのがあるが、これは、今津も供述しているように、試薬特級と認めるのが相当である)、昭和二八年頃は概ね二〇〇円ないし二六〇円位であることが認めらるのである。してみると、協和の右取引価格のうち最高価格である二六〇円をとり、今津の前記計算方法によつて計算しても、一七三円位にしかならず、本件工場との現実取引価格である一九五円には達しない。ところで、今津は、実際の取引価格は前記程度のものであつたけれども、当時、和光純薬及び関東化学等からきていた試薬の定価表に、第二燐酸ソーダ試薬一級五〇〇瓦瓶入り一本の小売価格は二七〇円ないし三〇〇円位と記載されていたから、それに基づいて計算したというのである。右三〇〇円を基本にして今津の計算法に従えば二〇〇円となり、本件工場との第一回の取引価格一九五円とほぼ一致することになる。したがつて、今津の前記計算方法そのものは決して荒唐無稽なものではなく、その基本となる価格をどれにするかが問題であるが、今津のように、儲けられるときには大いに儲けるのが商人であるというような誤つた営利主義を徹した型の商人の考え方からすれば、前記試薬の定価表に掲げられている三〇〇円を計算の基本にしたこともいかにもありそうなことであつて、必ずしも後から考案した勝手な理窟であるとして、排斥してしまうわけにもいかないのである。

六  1 原判決は、第二章第三の六の3の項において、「協和から本件工場に納入された第二燐酸ソーダは、前記のとおりすべて純度が九九%前後、砒素含有率〇・〇〇〇五%前後のもので、実質的には局方品や試薬品に比しても全く遜色のないものであつた」と認定し、右事実をも一資料として、本件工場の従業員らが、協和に対し、第一回目に第二燐酸ソーダを発注するにあたり、「木箱入りの試薬一級品を納入してもらいたい」という内容の注文が行なわれたのではあるまいかという合理的疑問が生じ、これを払拭することのできる資料はないと説示していることが認められる。なるほど、前後一〇回に亘り、協和から本件工場に納入された正常薬剤の純度が九九%前後、砒素含有率が〇・〇〇〇五%前後のものであつたことは、原判決の説示するとおりである。しかし、正常薬剤の性質が原判示のとおりであつたことは、本件公訴が提起せられた後原審で証拠調をした結果判明したことであつて、本件工場においてこれを使用していた当時、本件工場の従業員らには判明していなかつた(もつとも、第一回目の分については、本件工場の試験係責任者であつた前記蒔田洋美が、純度検査をしたことによつてその大体の純度だけは判明していたが、第二回目以降の分については、すべて本件発生後判明した事柄である)のみならず、協和も、薬品の製造業者ではなく販売業者であり、協和の社長今津定は、松野製薬から工業用第二燐酸ソーダを仕入れて本件工場に納入していただけで、松野製薬に対し特殊な注文をしていたような事情は窺われないし、右薬剤の純度検査等をしていたわけではないから、右正常薬剤が前記のような性質を有していたのは、本件工場の従業員らが試薬一級を注文したかどうかということとは何ら関係のない偶然のことというべきである。したがつて、右正常薬剤の純度や砒素含有率が前記のようであつたという事実を捉えて、本件工場の従業員らが協和に対し試薬一級を注文したことを推測する一資料とすることは失当であるといわなければならない。

2 協和から本件工場に対し、一三回に亘つて納入された薬剤のうち、一〇回に亘つて納入された薬剤が正常薬剤、すなわち、工業用第二燐酸ソーダであつたこと、並びに三回に亘つて納入された薬剤が松野製剤であつたことは、いずれも前記第三の三の1で説示したとおりであつて、右の各薬剤が客観的に試薬一級でなかつたことは極めて明白である。そして、右の事実は、本件工場の従業員らが、工業用薬品の納入を求めたのではないかとの推測を生ぜしめる資料とはなつても、試薬一級を発注したことを推定する資料とはなし難いといわなければならない。

3 前記の正常薬剤及び松野製剤は、工業用品であつたため、その容器である木箱には試薬一級であるとの表示のなかつたことも記録によつて明らかである。試薬一級であるならば、容器にその旨の表示のあることは、前記第二の三の5の(一)の(2) の項において詳細に説示したところによつて明らかである。然るに被告人小山は、協和から第一回目の薬剤二箱の入荷があつた際、前記山本薫に外観検査をなさしめ、自らこれに立会つたというのに、右薬剤の各木箱に試薬一級の表示があつたか否か全く気づいていない。もし、試薬一級の注文をしたのが真実であるならば、外観検査をするとき、試薬一級の表示の有無に注意するのが当然であるにかかわらず、この点については殆んど関心を示していない状況である。このことは、本件工場の従業員らが、工業用第二燐酸ソーダを発注したのであつて、試薬一級を注文していなかつたのではないかということを窺わせるに足るといわなければならない。(右の点について、前記第二の三の5の(一)の(2) のの項の末尾参照)

七  1 証人今津定の前記各供述調書(前記第三の五の2参照)を仔細に検討すると、その供述中には、かなりな薬種商を営んでいる会社の社長の言辞とは思われない程非常識とさえ見える部分もあること並びに仕入原価僅か九五円(一瓩当り単価)の第二燐酸ソーダを、得意先である本件工場へ単価一九五円もの高価な値段で納入して憚らないこと等、その人物にも疑問があることを考えると、その供述には全面的には信用できない部分があることはいうまでもないが、しかし、今津も昭和一六、七年頃から薬局を開業しており、世間からも一応信用せられていた筈であるし、各供述調書中の供述の一部分から推測すると、依怙地であるとさえ窺える点が看取できること等を考慮すると、試薬一級でもない工業用薬品を、試薬一級であると称して売り込むような詐欺に類する行為までするような人間であるとも思われない。もし、前記井上らの供述するように、試薬一級を注文したのが真実であるとすれば、今津は、従来協和が試薬を仕入れていた和光純薬工業株式会社、関東化学株式会社及び石津製薬株式会社のいずれかから、その薬剤を仕入れる筈であるのに、どうして工業薬品の問屋である松野製薬からこれを仕入れたかということも、理解に苦しむ点である。勿論、工業用第二燐酸ソーダを仕入れて、これを試薬一級品と称して販売すればその利潤の多いことはいうまでもないが、相当長期に亘つて薬種商を営んできた今津であり、従来このような不正行為をしたことも認められない同人が、このときに限つて、僅かな利潤追求(差額としては僅かである筈である)のために、右のような不正行為をしたのであると決めつけることも躊躇せざるを得ない。

2 前記各項において詳細に説示したところによつて明らかなように、被告人小山孝雄、証人山本薫、同井上邦夫及び同今津定の前記各供述調書中の供述記載は、いずれも全面的にはこれを信用することができないのであるが、しかし、右各供述調書及び右岩田浩一の各供述調書並びに前記説示の各事情を綜合すると、本件工場と協和との間における第一回目の発注は、次のような経緯で行なわれたものであることが認定できるのである。すなわち、本件工場の資材係井上は、協和の店員岩田に対し、当初第二燐酸ソーダの局方品を注文したのではなく、試薬一級をしかも大箱入りに重点をおいて交渉したのであり、協和と本件工場との間に第二燐酸ソーダの売買契約が成立したのは、井上と岩田とが本件工場の事務室において折衝したときではなく、井上と今津とが電話によつて交渉したときである。そして、その際、今津が、「試薬一級の大箱入りは取扱つていないが、工業用品の大箱入りならば入手できる」というと、井上が、「どの程度の品物か、よい品か」と尋ねると、今津が、「試薬一級にも劣らないよい品である」との趣旨の返答をしたので、井上は、電話の途中で、工務室に赴き山本にその旨報告し、さらに山本から被告人小山にその旨報告すると、同被告人は、山本を通じて「試薬一級に劣らなければそれでよいからすぐ注文するように」と指示したので、井上は、直ちに電話のところへ引返し、今津に対し、「工業用品でもよい、それを使つてみることにする」旨を伝え、さらに、「値段はいくらか」と尋ねたところ、今津が、「一九五円である」旨答えたので、井上は直ちに三五瓩入り二箱の第二燐酸ソーダを注文したのである。もつとも、右証人今津定(一三の六一七一以下)は、井上から、「よい品か」と問われたのに対し、「私はいいと思いますが、私の方でよくわかりませんから、一度使つてみてくれませんか、もし御都合が悪ければ取換えるなり御返品下さい」といつたと供述しているのであるが、右供述は、商品を売る商人の言葉としてはいかにも不自然であり、右証人山本薫(一六の七二三二)が、「それで、井上君が薬屋をあつちこつちあたつたと思います。その結果局方のものは扱つていないが、局方よりか、局方に劣らない試薬があるから、それはどうだ、といつて私に相談があつたんです」と供述していることや、被告人小山孝雄(三八の一六九五一)は、井上資材係が山本副主任に対し、「薬屋は、局方の大箱入りは扱つたことがなく、局方に劣らない試薬第一級品の大箱入りなら手に入るというが、どうするか」という旨の話をしたと供述していることに徴すると、今津は、井上に対し、前記のように試薬一級にも劣らない旨返答したと認めるのが相当である。なお、前記証人井上邦夫及び同岩田浩一の各供述調書によると、井上が岩田と折衝した際、井上は、岩田から、工業用品は一二〇円位であり、試薬一級は二〇〇円位であると聞いていたことが認められるのであつて、右事実に徴すると、もし、今津が供述する如く、同人が井上に対し、工業用第二燐酸ソーダを一瓩当り一九五円で納入すると申し向けたとすると、井上としては岩田から聞いている一瓩当り一二〇円とは著しく値段が相違するので、この点について何らかの異議を述べない筈はないとの疑問を生ずるのであるが、前記説示のように、井上は、今津から、「試薬一級にも劣らないよい品である」といわれたのと、被告人小山から、山本を通じて、至急注文するよう命ぜられていたため、岩田から聞いていた値段と今津のいう値段との相違するのをあまり意に介しないで、前記のように、直ちに発注したと認めるのが相当である。

3 これを要するに、前掲各証拠を綜合すると、本件工場の従業員らは、協和に対し、第一回目の注文をしたとき、局方品と指定しなかつたことは勿論、試薬一級その他規格品を指定しないで、通常の工業用第二燐酸ソーダを注文したことが認められるのである。

4 協和から本件工場に第一回目に納入された薬剤が工業用第二燐酸ソーダであつたこと、第二回目以降の発注について、被告人小山は、単に第二燐酸ソーダを注文せよと命じただけであつたこと並びに資材係井上も協和に対し第二燐酸ソーダを納入してもらいたいと注文したに過ぎなかつたことは、前記説示のとおりである。なお、第二回目以降の発注の形式的手続について考察するに、前記証人井上邦夫(一六の七三〇八)、同蒔田洋美(一八の八三三四)、同今津定(一四の六五六三)、証人磯部克巳(元本件工場事務課長代理、一八の八〇九四)、同中山栄(元本件工場事務課長心得、一九の八六五四)及び被告人小山孝雄(三八の一六九九二以下)の各供述記載を綜合すると、本件工場製造課において薬剤を購入する場合、従前は、係の責任者が製造課長である被告人小山の許可を得て、薬種商から直接所要の薬剤を購入し、納品書及び代金請求書を事務課資材係に送付して購入の事実を通知していたのであるが、昭和二八年頃以降には製造課の係責任者において、物品購入依頼書という伝票に、品名、数量等必要事項を記入し、製造課副主任山本を経て課長である被告人小山の決裁を得、これを事務課資材係井上のもとに送付し、同人において、事務課長の決裁を得たうえ業者に発注するという仕組みになつていたところ、本件工場が協和に対し第二回以降第一三回に亘り第二燐酸ソーダを発注した際にも製造課において前記のような手続がとられたのであるが、前記物品購入依頼書には、単に第二燐酸ソーダと表示するだけで試薬一級とは表示していないのであり、事務課においても前記のような手続をとつなうえ、井上が電話で協和に対し、規格及びメーカー等を指定しないで、単に第二燐酸ソーダいくらを納入して貰いたいと連絡しただけであるし、品物を受取る際注文書を手交していたが、その注文書にも試薬第一級とは記載せず、単に第二燐酸ソーダとのみ記載されていたことが認められるのであつて、右各事実に徴すると、第二回以降の注文も、従来納めてもらつていた工業用第二燐酸ソーダを納入してもらいたいとの趣旨であつたというべきである。したがつて、協和から本件工場に松野製剤の納入せられた際の注文も、工業用第二燐酸ソーダの発注であつたといわざるを得ない。

5 然るに、原判決が、第二章第三の六の4項において、最初の売買を含めて一〇度目以降の売買における注文は、特別の指示ないし条件が付けられていない限り、容観的にはこれまで九回に亘つて納入されていたものと同一品質のものの納入を求めているものと見るのが妥当である、と判断しているのであるが、しかし、右の事柄は、規格の定めのない工業用第二燐酸ソーダの納入を求めたことになるということはできても、決して試薬一級の納入を求めたことにはならないのである。

さらに続いて、原判決は、昭和三〇年四月一三日頃以降に行なわれた本件工場から協和に対する第二燐酸ソーダの発注は(注文者の主観的内容の問題としてではなく注文行為という客観的事実として)、「純度九九%前後砒素含有率〇・〇〇〇五%前後の第二燐酸ソーダを納入してもらいたい」という成分規格に関する指定の付いているものであつたと考えることもできるのではあるまいか、と判示するのであるが、なるほど、第一回ないし第九回の前後九回に亘つて納入された第二燐酸ソーダの実質が原判決の説示するとおりのものであり、しかも、本件工場の協和に対する第一〇回の注文が、従来のと同様の第二燐酸ソーダを納入してもらいたいという趣旨であつたとしても、それはただそれだけのことに過ぎないのであつて、それが局方品や試薬一級の注文をしたことにならないのは勿論、前記第二の五の2の(二)の(1) の(ハ)の項において説示したような成分規格を指定して注文したことにならないのは勿論であつて、あくまで工業用第二燐酸ソーダの注文に過ぎないといわなければならない。また、記録によると、九回に亘つて納入された正常薬剤がいずれも米山化学工業株式会社製のものであつたことは明らかであるが、その木箱の外側の製造元の表示としては、米山化学工業株式会社と表示されていたものもあつたし、松野製薬株式会社と表示されていたものもあつたことが窺われるのに、本件工場は、この点についても、協和に対し何らの照会もしていない位であるから、第一〇回目の発注がメーカーの指定をして行なわれた注文であるとも認められないのである。かりに、メーカーの指定のある注文であつたと見られるとしても、この程度のことでは、前記第二の五の2の(二)の(1) の(ハ)の項において説示した注意義務を尽したとはいえないことはいうまでもない。

次に、原判決は、第二章第三の七の項において、協和の今津定も、松野製剤が第二燐酸ソーダではない特殊化合物であることを全然知らず、第二燐酸ソーダであると確信していたことを理由として、本件では、本件工場が協和に第二燐酸ソーダを発注する際、注文物と異なるものの納入を防止するため、注文物の表示を明確にし、第二燐酸ソーダ以外のものを納入しないでもらいたいという本件工場側の意思が、協和に間違いなく届くようにしなければならないという注意義務に欠ける点があつたかどうかということは問題にならないことがらであると説示するので、按ずるに、なるほど、今津が松野製剤が非第二燐酸ソーダであることを知らなかつたのは事実であるが、しかし、今津がそのことを知らなかつたとしても、本件工場が協和に対し、局方品や試薬一級品等の規格品を発注することによつて、十分、「非第二燐酸ソーダを納入しないでもらいたい」という本件工場側の意思を伝えることができるのであり、そうすることによつて、松野製剤の如き薬剤の入荷及びその使用を防止し得たというべきであるから、この点に関する原判決の判断も到底首肯し得ないといわなければならない。もつとも、原判決が前記のような判断をしたのは、本件工場の従業員らの規格品発注義務を否定した当然の帰結であることはいうまでもないが、その誤りであることはすでに説示したとおりである。

6 これを要するに、以上説示のとおり、本件工場が、第一〇、第一一及び第一三回の三回に亘り、協和から松野製剤の納入を受けた際、本件工場の従業員らは、試薬一級品等の規格品を指定しないで発注していたことが認められるにかかわらず、原判決が、その注文に際し、本件工場の従業員らに、注意義務違反行為があつたということについては、結局証明がないことになる、と判断したのは、証拠の取捨選択を誤り、ひいて事実を誤認したものであるというべきである。

第四控訴趣意第三点の一ないし三(控訴趣意補充書第一の三及び第二)について。

一  所論は、縷々述べているが要するに、協和から本件工場に納入された第二燐酸ソーダという薬剤のうち、松野製剤以外のもの、すなわち、正常薬剤は、検査すれば必ず合格する薬品であつたから、本件工場の従業員らにこれを検査する義務はなく、松野製剤についても、包装、容量、薬剤それ自体の外観上では正常薬剤とは差異はなく、また、本件工場と協和との間には長期に亘り大量の第二燐酸ソーダという薬剤の取引があり、かつ、協和は信用の高い業者であつたから、右松野製剤についても、被告人らが相手方を信頼し、正常薬剤が納入されたと信ずるのが当然であるから、この場合も検査義務はない、とした原判決の判断は、事実を誤認し、ひいて法令の解釈を誤つたものである、というのである。

二  工業用第二燐酸ソーダには人体に有害な程度の砒素を含有する粗悪品があり、また、化学上は第二燐酸ソーダとはいえなくても、松野製剤の如き薬剤が取引上は一般に工業用第二燐酸ソーダとして取引されており、それには多量の砒素を含有するものもあるからということを根拠として、工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤である松野製剤を原料牛乳に添加使用するときには、本件工場の従業員らに化学的検査義務があるとの論旨は、前記第二の一及び二の各項において説示したと同一の理由により、到底採用できない。

三  1 工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては、非第二燐酸ソーダが納入される危険性があり、しかも、その非第二燐酸ソーダにはいかなる有毒物を混入しているかも判らないということを根拠とする場合に、本件工場の従業員らには、まず第一に規格品使用義務があり、この注意義務に違反して敢えて工業用第二燐酸ソーダを使用するときには、その薬剤が間違いなく第二燐酸ソーダであることを確かめるために、適切な化学的検査をなす義務のあることは、前記第二の五の2の(四)の各項において説示したところによつて明らかである。

然るに、記録を精査しても、本件工場の従業員らが、前後三回に亘り協和から本件工場に納入された松野製剤を使用する前、右薬剤が第二燐酸ソーダであるかどうかを確かめるため、化学的検査を実施したことを認めるに足る何らの資料もない。もつとも、被告人小山孝雄は、原審第六一回公判期日(三八の一六七六三)において、昭和二八年四月一一今日以降協和から納入されてきた第二燐酸ソーダという薬剤につき、試験係責任者をして一箱毎に外観検査、溶状検査及び官能検査を実施させた旨供述していることが認められるのであるが、右供述記載は、前記証人吉村年(一六の七三九六)の供述調書並びに被告人小山孝雄の、司法警察員に対する各供述調書(三七の一六五五三、一六五五九、一六五七〇、一六五九七)、裁判官の面前における陳述録取調書(三七の一六五八一)及び検察官に対する各供述調書(三七の一六六五八、一六六六三)を綜合すると、にわかに信用できない。そうすると、本件工場の従業員らは、松野製剤を使用するにあたり、前記化学的検査義務に違反したものであるという外はない。してみると、本件工場従業員らの松野製剤についての化学的検査義務に関しては、これ以上論ずる必要はない筈であるが、原判決は、第一ないし第九回に亘つて納入された薬剤が正常品であつたため、これを使用した過去の実績等に照して、本件工場の従業員らが、その後納入された松野製剤について一定の法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然である。と判示しているので、これらの点についてさらに検討する必要がある。

2 前記第三の各項において説示したとおり、本件工場の従業員らは、協和に対し第二燐酸ソーダを発注するにあたり、工業用薬品の納入を求めたのであつて、試薬一級等の規格品を注文したのではないから、規格品が納入された場合の注意義務については、もはやこれを論ずる必要はないのであるが、しかし、被告人小山初め前記証人山本薫及び同井上邦夫らは、いずれも、本件工場が協和に対し第一回目の発注をしたときには試薬一級と指定したのであり、松野製剤が入荷したときの注文も試薬一級の規格指定が行なわれていたかのような供述をしているので、規格品使用にあたつての検査義務についても一言することとする。

前記第二の五の2の(二)の(1) 掲記の規格品を使用する場合、使用前その化学的検査を実施する必要のないことは前記説示のとおりであるが、しかし、その外観検査までしないでよい筈はない。すなわち、右規格品を発注購入して使用するときには、その使用前、薬種商から納入された薬品が、その容器もしくは被包の表示等から、果して注文したとおりの規格品であるか否かを点検して、右にいう規格品であることを確認し、さらに容器内にある薬品自体についても、色、光沢及び結晶粒の大小等を点検して異状の有無を確認しなければならないことは勿論である。蓋し、いかに被包等に局方品等の規格品であるとの表示があつたとしても、その内容たる薬品の色が、本来白色であるべきにかかわらず黒色であるというような場合に、それをそのまま表示どおりの薬品として使用すべきでないことはいうまでもないからである。しかし、色、光沢及び結晶粒の大小等を点検しても、別に異状の認められないときには、それ以上さらに、その薬品が被包及び容器等に表示されている薬品であるか否かについて、その化学的検査をなすべき義務のないことは前記説示のとおりである。そして、被告人小山らの供述に従えば、協和に対して第二燐酸ソーダを注文したときには、試薬一級のものを注文したことになるのであるが(このことが事実に反することはすでに説示したとおりである)、もしそうであると仮定すれば、前記第二の三の5の(一)の(2) の項において説示したとおり、試薬一級には必ずその旨の表示があるのにかかわらず、第一回ないし第九回に亘つて本件工場に納入された正常薬剤には試薬一級の表示がなかつたのであるから、本件工場の従業員らが、果して右各薬剤が注文したとおりの試薬一級であるか否かについての外観検査をなすことにより、容易に試薬一級でないことが判明した筈であり、かりに、試薬中にその表示のないものがあるとしても、表示のあるものが多いことは否めないのであるから、表示のないことに疑念を抱き、協和ないしは製造業者に問いあわすべき配慮を払うのが食品製造業に従事する者の当然とるべき措置であつたというべきにかかわらず、このような措置をとつた事跡は記録上全く認められないのであつて、しかもそのため松野製剤を使用する結果を招来したのであるから、まさに、右にいう規格品使用に際しての外観検査をなすべき注意義務に違反したものであるといわなければならない。

四  1 本件工場の従業員等が、工業用第二燐酸ソーダを使用する場合にも、なおかつ、原判決のいわゆる信頼感のために、前記規格品使用の場合と同様に、単に外観検査をするだけで足り、化学的検査をなすべき注意義務が免除されるといえるかどうかについて考えてみなければならない。

2 (一) 原判決は、第二章第四の二の1、2、3の各項で説示するような松野製剤が納入された客観的背景という事実を認定して、右客観的背景の下に納入されてきた松野製剤については、これがそれまで納入されていた正常薬剤と同一品質のものであるという、法律的価値さえ備えた信頼感が生ずるのが当然であり、この信頼感を動揺させるに足る特別の事情、すなわち、この松野製剤がこれまで既に納入された(又使用されてしまつた)正常薬剤の外観と異つており、この差異が以上両者の間に品質上の差異があるも知れないという疑問を生ぜしめる程度のものである、ということが判明しない以上は、この信頼感に従つて行動することが是認されるのであつて、その上さらに進んで、松野製剤につき、返品、化学的検査による同一性確認もしくは化学試験による無害検査等の処置をとらなければならないという義務の履行までも要求されるべき筋合いではない、と判示しているのである。なるほど、(1)  協和と本件工場との間の第二燐酸ソーダの取引は、昭和二八年四月一一日頃から昭和三〇年七月二六日頃までの間に前後一三回に亘つて行なわれており、その間売買代金の単価の変動は、昭和二八年一〇月二九日頃行なわれた第四回目の取引以降は全然なかつたのであり(原判決五〇丁表一三行目に「売買代表」とあるのは「売買代金」の誤記であり、「昭和二九年一〇月」とあるのは「昭和二八年一〇月」の誤記である)、(2)  松野製剤が納入されたのは、昭和三〇年四月一三日頃以降であり、その前に九回に亘つて納入された薬剤は、すべて正常な第二燐酸ソーダであり、その砒素含有量がいずれも〇・〇〇〇五%前後のものであり、その数量は全部で九四〇瓩であつたことは、いずれも原判決の認定するとおりであり、そして、(3)  協和は、原判決が第二章第三の四の3の項において説示するような、かなりの商店であつたことも一応首肯できないことはない。

(二) (1)  原判決のいう信頼感は、主観的認識の問題であるから、松野製剤が三回に亘つて納入されてきた当時、被告人らが認識していた事情を基礎として判断されるべきであつて、本件発生後調査の結果初めて判明するに至つた事情を加味して判断するのは失当である。

(2)  本件が問題になるまでは、第一回ないし第九回及び第一二回に納入せられた正常薬剤も、第一〇、第一一及び第一三回に納入せられた松野製剤も、いずれもその成分規格はその当時被告人らにとつて不明であり、右正常薬剤は、正常な第二燐酸ソーダであつて、その砒素含有量が〇・〇〇〇五%前後であり、右松野製剤は、特殊化合物であつて、その砒素含有量が約四・二%ないし六・一%位であることは、本件発生後調査の結果初めて判明したことであつて、右の各事実は記録によつて明白である。すなわち、第一〇回目に松野製剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回目に納入せられた正常薬剤の成分規格は不明であり、第一一回目に松野製剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回目に納入せられた正常薬剤及び第一〇回目に納入せられた松野製剤の成分規格も不明であり、第一二回目に正常薬剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回目の正常薬剤及び第一〇、第一一回目の松野製剤の成分規格は不明であり、第一三回目に松野製剤が納入せられたときには、第一回ないし第九回、第一二回目の正常薬剤及び第一〇、第一一回目の松野製剤の成分規格は不明であつたのである。ただ、第一〇回目に松野製剤が納入せられてきたとき判明していたことは、第一回ないし第九回目に納入せられた薬剤を添加使用して製造した乳児用調整粉乳の溶解度が良好であつて、これを飲用した者から事故のあつたという報告がなかつたということであり、第一一回目及び第一三回目に松野製剤が納入せられ、第一二回目に正常薬剤が納入せられたときにも右と同様であつたというに過ぎないのである。

(3)  原判決が認定する前記第四の四の2の(一)の(1) の事実、すなわち、第四回目以降の取引においては単価の変動が全くなかつたという点であるが、元来、被告人小山は当時右のような事実は全く知らなかつたことが記録によつて窺われるし、本件の場合、第一回目の取引のときから継続的供給契約が締結されていたわけではなく、その都度の取引が重なつて結果的に継続的となるに至つた取引にあつては、単に単価が同一であつたという事実に重点を置いて、その品質の同一性を推定するのは慎重でなければならない。

(4)  次に、売主である協和が信用のおける商人であつたという点(前記第四の四の2の(一)の(3) )であるが、しかし、被告人小山の昭和三〇年八月三〇日付供述調書(三七の一六五五九)によると、同被告人は、本件工場において使用していた第二燐酸ソーダという薬剤が、協和から購入されていたということは、本件発生後初めて知つたのであつて、松野製剤が納入されてきた当時には第二燐酸ソーダをどこの薬種商から買い入れていたか全く知らなかつたことが認められるので、右事実に徴すると、協和が信用のおける商人であるからということを理由として、納入されてくる薬剤を被告人小山が信頼したというのは失当である。のみならず、協和は、仕入先から仕入れた薬品類を検査しないで、そのまま消費者に販売している小売業者であり、本件で問題になつている松野製剤も松野製薬から仕入れたまま本件工場へ単に取次ぎ販売していたに過ぎなく、薬剤の品質については保証していないのであるから、小売商の協和が信用できるから多分間違いのない商品を納入してくれるだろうという程度のことは考えられるとしても、それ以上に、協和が信用できるということを理由として、その納品に原判決のいうような高度の信頼感を持たせるということは、疑問であるといわなければならない。

(5)  (イ) 原判決は、第二章第四の三の3の項において、薬剤ことに食品添加物として初めて使用する薬剤を継続的に購入使用する場合、売主ないしこの薬剤の製造業者において、この薬剤が食品添加物として用いられるということを了解していないときには、注文に基づき納入されてきた薬剤について、少くとも第一回に納入される物件については、購入者側としては、その純度と有害物(砒素等)の含有率との化学的検査を施行しなければならないとしても、協和から本件工場に納入せられた正常薬剤は、以上のような化学的検査が加えられても、これを通過するだけの品質ないし成分規格を備えているものであつたのであるから、この化学的検査が行なわれたか否かということは、松野製剤の入荷、使用という結果の発生に対して何らの影響力を持つていないのであつて、したがつて、本件においては、本件工場が第一回目の納入物件(正常薬剤)について、右化学的検査をしたかどうかという点はこれを論ずる必要がない、と説示しているのである。

なるほど、協和から本件工場に対して第一回ないし第九回及び第一二回目に納入せられた薬剤は正常薬剤であつたから、化学的検査を加えられてもこれを通過するだけの品質ないし成分規格を備えているものであつたことは、原判決説示のとおりであるが、しかし、第一〇、第一一、第一三回目に納入せられてきた松野製剤は、多量の砒素を含有する特殊化合物であつたから、化学的検査が加えられるとこれを通過しない品質ないし成分規格のものであつたことも明白である。本件では、右松野製剤の購入及び使用等についての被告人らの業務上の注意義務が問題になつているのであるから、前記正常薬剤について化学的検査が加えられなかつたとしても、そのことは、松野製剤使用を原因とする本件事故の発生とは法律上何らの因果関係もなく、その意味においては、正常薬剤に化学的検査が加えられなかつたということは、松野製剤の使用による死傷事故の発生に対して何らの影響力を持つものでないことはいうまでもない。

しかし、被告人小山らにとつて、右正常薬剤の成分規格が明確になつたのは、本件発生後調査した結果であり、これを使用していた当時においては、その成分規格は不明であり、その品質や成分規格についての強力な保証はなかつたのにかかわらず、被告人小山らは、何ら化学的検査を施行しないままこれを使用したということ、すなわち、食品添加薬剤に対する杜撰な態度、すなわち、論旨のいわゆる品質管理を欠いていたということが、松野製剤が納入されてきた際にも、これを検査しないまま使用するに至らせたといえるから、この意味においては、正常薬剤について検査をしなかつたことが、松野製剤に対する化学的検査の懈怠についても影響があつたといわなければならならい。

なお、証人今津定及び同岩田浩一の前記各供述調書を綜合すると、協和においては、本件工場が第二燐酸ソーダの本来の用途である清缶剤もしくは洗滌剤として使用するものと思つて工業用品を納入していたのであつて、牛乳に添加使用されるというようなことは全然考えていなかつたことが認められる。もつとも、この点につき、前記証人井上邦夫(一六の七三五七)は、協和の今津に電話で第二回目の注文をしたとき、第二燐酸ソーダを牛乳に入れる旨伝えたと供述しているけれども、右供述は、前記証人今津定及び同岩田浩一の各供述に照して、たやすく信用できない。

(ロ) さらに、原判決は、継続的取引における納入物件の品質の担保は、過去に納入されたものに対する化学的検査の結果という要素がなくても、過去における実績、すなわち、この事件においては、期間にして約二年間、納入回数にして九回、数量にして九四〇瓩という薬剤を食品添加物として使用し、これによつて約一五五一、〇〇〇瓩(原判決五三丁裏一〇行目に約一万五千瓩とあるのは、計算を誤つたための誤記である)の乳児用調整粉乳が製造されたが、これによつて傷害事故の発生したというような報告が全然なかつたということによつても形成されるのであつて、この場合に、過去に納入使用されていた物件の品質を化学的に検査しなかつたということは、この品質の担保力の形成を妨げたり、またはこれを弱体化させたりするものではない、と説示している。本件工場が、右正常薬剤を二年間に亘つて使用してみた結果、よつて製造された乳児用調整粉乳を飲用した者から、傷害等の事故があつたという報告のなかつたことは事実である。しかし、人の生命、身体に直接関係のある食品の製造について、かような考え方が許されるかどうか疑問である。無害であるとの確実な保証のない右正常薬剤を使用して製造した乳児用調整粉乳の飲用によつて事故が生じなかつたということを理由とする考え方は、これを飲用する乳幼児の生命及び身体が、右調整粉乳の有害か無害であることを確かめるための試験材料に供せられるのと同様の結果になつてもやむを得ないという考え方に通ずるのである。すなわち、正常薬剤を使用して製造した乳児用調整粉乳は、乳幼児が飲用検査したところ無害であつたが、松野製剤を使用して製造した乳児用調整粉乳は、乳幼児が飲用検査したところ、有害であることが判明したということに帰着するのである。言葉を換えると、品質について何ら保証のなかつた正常薬剤は、乳幼児が飲用検査をしたことによつて初めて品質の保証を得たのであり、品質について何ら保証のなかつた松野製剤は、乳幼児が飲用検査をしたことによつて初めて有害であることが判明したのである。のみならず、原判決が、第二章第一の一の項で認定するように、松野製剤を添加使用して製造した乳児用調整粉乳を飲用したためではないかと推測される人工栄養児の傷害事故は、すでに昭和三〇年六月下旬頃発生していたことが窺われるのであり、しかも本件工場においては、その後においてもなお相当量の松野製剤を原料牛乳に添加使用して乳児用調整粉乳を製造していることは記録上明らかなところであるが、それでもなお原判決は、傷害事故の報告がなかつた(松野製剤に砒素を多量に含有していることを発見したのは昭和三〇年八月二七日である)ということだけで、過去の実績があるとして、右六月下旬以降使用した松野製剤の品質が担保されていたとなすのであろうか。右のような奇妙で不自然な結論に到達するのは、原判決が、単に傷害事故の報告がなかつたという事実を重要な価値を有する過去の実績であるとして、これによつて将来納入されてくる薬品の品質まで担保され得るものであると誤解したことに基因するのである。元来、食品の製造業者が、当該食品の摂取者においてこれを飲食することが、すなわち、その食品の有害か無害かを確かめる化学的試験になるのと同一の結果になるような杜撰な態度で、食品を製造することの許されないことはいうまでもないであろう。また、本来強力な保証のない薬剤をいかに長期間使用してみて事故が生じなかつたとしても、それは保証のない薬剤の使用の累積であり、事故の生じなかつたのは偶然のことであり、保証のない薬剤の使用が累積されたとしても、その後に納入されてくる薬剤の品質について保証のないことは、従前の薬剤につき保証のないのと全く同様であり、したがつて、原判決のいう過去の実績によつては、続いて納入されてきた薬品の品質の担保は形成されるものではないといわなければならない。この点に関する原判決の判断は到底首肯できない。各容器毎に化学的検査を実施して初めてその薬品の品質が担保されると解すべきである。

(ハ) 原判決は、松野製剤が納入されたとき、本件工場から協和に対して、「納入されたものは第二燐酸ソーダ、しかも正常薬剤と同じ品質ないし成分規格のものに間違いないかどうか。」と念を押したか否かということは、この事件では全く考慮の余地がない、と説示している(原判決第二章第四の三の2参照)。なるほど、協和の今津としては、松野製剤を本件工場に納入したときには、松野製剤を第二燐酸ソーダであると信じていたことは原判示のとおりであるが、しかし、今津は、その取扱う薬品について何らの化学的検査も実施していなかつたのであるから、松野製剤の成分規格が従来の正常薬剤と同一のものであつたと考えていたか否かは疑問であり、もし、同人が、本件工場から従来納入された薬剤と同一の成分規格のものかどうかと確かめられたならば、同人は、その成分規格を知らなかつたのであるから、協和に松野製剤を販売した松野製薬に対し、今回協和に入荷した松野製剤の成分規格は、従来の正常薬剤と同一成分規格のものかどうかと確かめるであろうし、そうなると、松野製薬においても、従来の薬剤は米山化学工業株式会社製であるが、今回の松野製剤は松野製薬製であつて従来の薬剤とは成分規格が異なると答えたであろうし、用途によつては使用すべきでないということをも附加して回答したことが窺われるから、松野製剤が本件工場に納入せられたとき、本件工場が協和に対し松野製剤の成分規格を確かめたか否かということは、決して無意義ではなかつた筈である。然るに、現実には本件工場は協和に対して何ら念を押していないのに、原判決が、念を押しても結果は同じであつたと判断したのは、原判決独自の見解であるというべきである。

(6)  原判決が、被告人小山らが松野製剤に対し強い信頼感を抱いた根拠として挙げている客観的背景なるものは、前記(2) ないし(4) の各項で説示した程度のことであつたし、被告人小山らの正常薬剤に対する取扱態度は、前記(5) の(イ)の項で説示したようなものであつたし、さらに、原判決のいわゆる過去の実績の実態が前記(5) の(ロ)の項で説示したような状況のものであつたことから考えると、被告人小山は、松野製剤が納入せられた当時においては、協和から納入せられてきていた従前の薬剤について、松野製薬(第一回ないし第九回に納入せられた正常薬剤は、すべて米山化学工業株式会社製造にかかる正常な第二燐酸ソーダであつたが、被告人小山は、米山製であることを知らなかつたのである。右正常薬剤の木箱には、米山化学工業株式会社と表示されていたものもあつたし、松野製薬株式会社と表示されているものもあつたことは、前記第三の七の5の項で説示したとおりである)という製造業者が製造したもので、紙袋に入つた白色結晶粒の薬剤が粗末な木箱に入れらており、木箱の外部側面には第二燐酸ソーダと表示されており、本件工場の資材係井上邦夫が被告人小山の指示に基づき、第二燐酸ソーダを納入してもらいたいと注文したことにより、徳島市内のいずれかの薬種商から、第二燐酸ソーダであると称して納入されてきている薬剤であり、従来納入されてきた薬剤を使用して製造した乳児用調整粉乳を飲用した者に傷害事故を生じたというようなことは聞いていなかつた、という程度の認識を有していたに過ぎなく、それ以上の認識はこれを有していなかつたと認めるのが相当である。被告人小山は、原審第六一回公判期日(三八の一六九四八)において、協和から本件工場に一三回に亘り納入せられていた各薬剤はすべて試薬一級であると確信していた旨供述するのであるが、右供述の信用できないことは、前記第三の各項において説示したところによつて明らかである。

したがつて、前記に説示したような状況の下において、納入されてきた松野製剤については、被告人小山らに、それが、これまで納入されていた正常薬剤と多分同一品質のものであろうという位の軽い信頼感が生じたというのならばともかく、法律的価値まで備えた信頼感が生ずるいわれはなく、生じてもいなかつたのであり、また、客観的にも、過去の実績によつて松野製剤の品質の担保が形成され得ないことは、前記説示によつて明らかである。

3 以上詳細に説示したところによつて明らかなように、本件工場の従業員らが、同一の薬種商である協和から、約一年九ケ月の間に前後九回に亘り合計九四〇瓩の工業用第二燐酸ソーダを購入し、これを原料牛乳に〇・〇一%の割合で添加使用して乳児用調整粉乳合計約一五五一、〇〇〇瓩を製造販売し、これを飲用した乳幼児に傷害等の事故を生じたとの報告がなかつたとしても、協和から第一〇回目に工業用第二燐酸ソーダと称して納入されてくる薬剤につき、それが間違いなく第二燐酸ソーダであるか否かを確かめるための化学的検査義務が免除されることはないというべきである。化学的検査義務の免除されるのは、前記に説示した規格品を使用する場合に限られるのである。

4 原判決が、前記説示のように、一定の法律的価値を備えた信頼感というような考え方をとつたのは、或いは、ドイツの判例によつて確立されているといわれる交通関係者の信頼の原則、すなわち、他の交通関係者は交通規則に従つた態度をとるということを信頼してよいとの原則と同一の理念に基づくものではないかとも推測されないことはない(吉田常次郎氏の「過失犯」、法曹時報一七巻六号一四頁参照)。我が国では、未だ前記のような判例の確立していないことはいうまでもないが、しかし、当裁判所としても、自動車等高速度交通機関の運転者が交通事故を惹起したときに、右信頼の原則の適用により、免責され得る場合のあることをもとより否定するものではない。

しかしながら、高速度交通機関の運転者と食品製造業者とでは、その置かれている立場は全く異つているし、他の交通機関や通行人が交通規則に従つて行動するだろうということと薬品製造業者や販売業者が業界のルールに従つて行動するだろうということとは必ずしも同一性格のものではなく、ことに、高速度交通機関の運転者の場合は、運転中に不法に自分の車の前に飛び出す自動車や通行人のあることを慮つて、いつでも止まれる用意と注意とをもつて、常に運転しなければならないということになると、高速度交通機関の迅速性は著しく阻害される結果を招く虞があることも考慮しなければならないのに反し、食品製造業者が、食品添加物として薬品を購入したり、これを食品に添加使用するにあたつては、前記のような事情の毫も存しないことに鑑みると、本件の場合に、信頼の原則が適用される余地は全くないといわなければならない。

五  ここで、原判決の判断は、果して論理が一貫しているのかどうかの点について考慮してみる必要がある。原判決は、第二燐酸ソーダを食品に添加使用するにあたつても、たとえそれが工業用薬品であつても、第二燐酸ソーダには人体に有害な程度の砒素を含有していないし、第二燐酸ソーダを納入してもらいたいと注文すれば第二燐酸ソーダが間違いなく納入されてくるのであつて、万一右注文に応じて非第二燐酸ソーダが納入されることがあつたとしても、そのようなことは到底予見不可能であるということを理由として、本件工場の従業員らには規格品発注(使用)義務はないとしているのにかかわらず、松野製剤の使用にあたつては、本件工場の従業員らが、原判決のいわゆる客観的背景の下においては、松野製剤につき一定の法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然であるとなしたり、過去の実績によつて松野製剤の品質の担保が形成されるとするのは何故であろうか。原判決が規格品発注義務を否定した理由から判断すると、第一〇回目に納入されてきた松野製剤についても、本件工場の従業員らは、協和に対し第二燐酸ソーダの納入を求めたのであり、協和も第二燐酸ソーダと称して納入したのであり、しかも外観検査の結果、外箱には第二燐酸ソーダと表示されており、内容品である薬剤の外観も第二燐酸ソーダと同一であつたというのであるから、原判決のいわゆる一定の法律的価値を備えた信頼感を抱かなくても、また、過去の実績がなくても、化学的検査を実施しないでそのまま使用することができたという結論に到達してよい筈ではなかろうか。原判示からすると、信頼感が生じないときないしは過去の実績がないときには、化学的検査義務があつたと判断したと解せざるを得ない。しかも、原判決は、第一回目に納入せられた正常薬剤については、かりに化学的検査が加えられたとしても通過するだけの品質ないし成分規格を備えていたことを理由として、化学的検査をしたかどうかという点はこれを論ずる必要がないとしてはいるが、その前提においては化学的検査義務のあることを肯定しているのである。したがつて、原判決も、化学的検査義務の有無を論ずるにあたつては、第二燐酸ソーダの納入を求めたのに対し、非第二燐酸ソーダの納入されることもあり、しかもそのことは予見可能であつたことを肯定したがために外ならない。何故ならば、松野製剤が第二燐酸ソーダであることが間違いないのならば、もはやそれ以上化学的検査を加える必要は毫もない筈であるからである。以上のとおりであつて、原判決が、規格品発注義務の有無について検討した際に示した判断と、化学的検査義務の有無について検討した際示した判断との間には、矛盾があり論理が一貫していないとの譏を免れ難いといわなければならない。

六  前記第四の三ないし五の各項において説示したとおり、原判決が、本件工場の従業員らが協和から購入した第二燐酸ソーダのうちには非第二燐酸ソーダのあることを認定し、かつ、その予見が可能であつたことをも一応肯定しながら、事実を誤認して、松野製剤が納入せられた客観的背景の下においては、本件工場の従業員らが松野製剤に対し法律的価値を備えた信頼感を抱くのは当然であるとなし、約二年近くに亘る過去の実績によつて松野製剤の品質の担保が形成されるとし、その結果、本件工場の従業員らに松野製剤に対する化学的検査義務がないと判断したのは、法令の解釈を誤つたものであるといわざるを得ない。

第五訴因について。

一  被告人ら両名の弁護人らは、当審検察官の主張によると本件訴因は特定しないことになるので、刑訴三三八条四号により、判決で公訴を棄却すべきであり、然らずとしても、訴因追加の検察官の主張は許容せらるべきでない、と答弁するので(弁護人海野普吉外三名共同作成名義の「公訴事実、訴因並びに訴因についての検察官の釈明に対する弁護人の意見」と題する書面参照)、この点に関連して、本件訴因についての当裁判所の見解を説明することとする。

二  第一審は、その審理終結当時、検察官の主張によつて確定した訴因に基づき審理判決するのであり、また、しなければならないのである。控訴審は、原判決の当否を審査することを目的とする事後審であるから、原審で確定された訴因を基準にして審判すべきであることはいうまでもない。したがつて、控訴審において検察官が、訴因について意見を表明したところで、訴因変更手続をしない限り、原審で確定した訴因に影響を与えるものでないことは当然である。控訴審においても、事実の取調を進めるにつれ、検察官から訴因変更の申出がある場合に、訴訟記録並びに原裁判所及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて原判決を破棄し自判しても被告人の防禦に実質的不利益を及ぼさないと認められるようなときには、訴因変更を許すべきものであろうが(昭和三〇年一二月二六日最高裁第二小法廷判決、最高裁判例集九巻一四号三〇一一頁参照)、それはあくまで破棄自判する場合に限られるのであつて、かりに、原判決を破棄しなければならないとしても、本件の如く検察官の立証が全部尽くされていないため、控訴審において自判できないことが極めて明白であるときは、訴因変更の問題を生じないことはいうまでもない。当審検察官が訴因変更の請求と認められるような申出をした事実もないのであるから、もとより当裁判所が訴因変更を許可する筈もない。したがつて、訴因不特定を理由として公訴棄却の判決をなすべきであるとの弁護人らの見解を採用できないことは明らかである。

三  1 本件訴因については、もはやこれ以上説明を加える必要はないのであるが、原審ではもとより当審においても、「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」の解釈をめぐつて、当事者双方が驚くほど多数回に亘り求釈明これに対する釈明を繰り返しているので、念のため、原審が審理を終結した当時における本件訴因はいかなるものであつたかの点について検討することとする。

2 本件記録によると、原審検察官は、本件公訴を提起した当時においては、工業用第二燐酸ソーダは砒素を含有し、しかも往々にして砒素を多量に含有する粗悪品もある場合もあるから、被告人らは、購入した工業用第二燐酸ソーダを開函して原料牛乳に混和使用するにあたり、その都度砒素の含有量を化学的に厳重検査すべき業務上の注意義務があつたと主張していたのであるが、原審における証拠調の結果、本件で問題になつた松野製剤の出所、移動の経路及びその性質等が明らかにせられ、松野製剤が必ずしも工業用第二燐酸ソーダとは称し得ないことが判明したため、原審検察官は、昭和三二年四月一一日の第七回公判期日において、同年三月二五日付釈明書(五の一九七〇)により、「公訴事実冒頭に記載した工業用第二燐酸ソーダとは、工業用第二燐酸ソーダとしてこれまで取引せられ、また、将来取引される薬剤の総てを指称する。」と釈明するに至つたため、原審は、同年四月二七日の第八回公判期日において、検察官の右釈明内容が、起訴状記載の公訴事実とは著しく相違することを理由として、釈明の趣旨に従つて訴因変更の手続をなすことを命じたため、原審検察官は、同年五月三一日の第九回公判期日において同年同月二二日付訴因変更請求書(五の二〇二四)により、起訴状記載の公訴事実中五ケ所に工業用第二燐酸ソーダと記載されているところ、第一番目、第四番目及び第五番目にそれぞれ「工業用第二燐酸ソーダ」と記載されているのをいずれも「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」と変更し、第二番目及び第五番目にそれぞれ「工業用第二燐酸ソーダ」と記載されているのをいずれも「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」と変更し、その後、昭和三七年五月一九日の第四九回公判期日において同年三月二四日付訴因変更請求書(三四の一五三二六)により、同年一〇月二九日の第五四回公判期日において同年一〇月二四日付の訴因変更請求書(三四の一五六〇六)により、前記第一の項で説示した公訴事実記載のとおり訴因変更の請求をなし、原審が右各訴因変更を許可したことが認められるのである。

3 (一) 前記公訴事実の記載、弁護人らの求釈明に対する原察検察官の各釈明の趣旨並びに訴因変更の行なわれた経緯等に徴すると、公訴事実中に、「殊に右薬剤が本来食品に使用される性質のものではなく」とある「薬剤」は、その数行前に摘示されている「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」を指称しているものであるところ、右「薬剤」の意義は、化学的検査義務を論ずる場合にはそのまま妥当するが、規格品発注義務を論ずるについては「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤」の趣旨でなければならないことは論理上当然のことであり、そして、右にいう「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤もしくは取引された薬剤」には、(a) 正常な工業用第二燐酸ソーダ、(b) 人体に有害な程度の砒素を含有する工業用第二燐酸ソーダ、(c) 化学上は第二燐酸ソーダとは称することはできなくても、清缶剤等の用途に適するため、取引上の概念としては工業用第二燐酸ソーダの範疇に入る薬剤、及び(d) 化学上はもとより取引上も工業用第二燐酸ソーダの範疇に属しない非第二燐酸ソーダである各種薬剤を含む趣旨であることが認められる。検察官は、工業用第二燐酸ソーダは、本来食品に使用される性質のものではなく、主として工業用に使用される関係上、工業用第二燐酸ソーダなどといつて取引される薬剤もしくは取引された薬剤は、含有物質の種類、分量等の規格がなく、品質の保証もなく、その成分も詳らかでないため、往々にして人体に有害な砒素その他の物質を多量に含有する前記(b) 、(c) 及び(d) のような粗悪品のある場合もあるから、被告人らは、第二燐酸ソーダを原料牛乳に混和使用するにあたり、規格品発注(使用)の業務上の注意義務があり、規格品以外の第二燐酸ソーダを混和使用するときには厳密な化学的検査を行ない、無害なものであること並びにそれが第二燐酸ソーダであるか否かを確認すべき業務上の注意義務があつたと主張しているのである。

(二) 検察官は、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダ」なる用語には、概念として、工業用の粗悪な第二燐酸ソーダとともに工業用の正常な第二燐酸ソーダをも包含しておると釈明し、(検察官の昭和三七年一〇月五日付釈明書参照、三四の一五五七七)、さらに、右は、冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」なる用語の概念を説明したものであり、そのような概念に該当する薬剤は実在するものであり、現に実在した公訴事実一及び二掲記の薬剤(本件事故惹起薬剤)も工業用第二燐酸ソーダの一例であると釈明している(昭和三七年一〇月二四日付検察官釈明書参照、三四の一五六〇七)ことが認められる。

(三) しかし、一方検察官は、本件は、工業用第二燐酸ソーダとして販売されていた薬剤を購入し、無検査で使用したことについて注意義務の懈怠を問擬しているのであるから、この場合はおいては、注意義務発生の前提となる事実は、工業用第二燐酸ソーダとして取引せられていた薬剤に有毒なものが存在していたことまたは存在する虞があつたことであつて、化学上の第二燐酸ソーダの有毒性の有無ではない。したがつて、本件薬剤が、化学上の第二燐酸ソーダがあるか否か、或いは工業用第二燐酸ソーダと称することが妥当であるか否かの議論は、注意義務の存在とは関係のない事柄であるから、工業用第二燐酸ソーダの化学式を論ずることは何ら必要がない、と釈明し(検察官の昭和三二年三月二五日付釈明書参照、五の一九七〇)、そのようなことは予想されないが、もし現実に、硼酸、重曹、岩塩等が工業用第二燐酸ソーダとして取引されたものがあれば、当然そのようなものも含まれる趣旨である(原審第九回公判調書参照、五の二〇三三)と釈明し、公訴事実にいう粗悪品とは、多量の不純物を含む化学薬品の意味である(検察官の昭和三三年一二月五日付釈明書参照、一五の六六八八)と釈明し、本件公訴事実一及び二掲記の物件(薬剤の意)は、取引界においては一応工業用第二燐酸ソーダの範疇に入るものであつたと考えられる、検査義務違反には同一性確認義務違反をも含めて併せて主張する(原審第五二回公判調書参照、三四の一五五〇五)旨釈明し、公訴事実一及び二記載の薬剤は「工業用第二燐酸ソーダとして取引されたものである」との主張を維持するものであり、その意味は、第二燐酸ソーダという名称を付して取引された薬剤であるという意味である(検察官の昭和三七年七月一八日付釈明書参照、三四の一五五一六)と釈明しているのである。

(四) 右(三)に説示した検察官の各釈明内容から考えると、検察官が前記(二)に説示したような釈明をしているからといつて、検察官主張の本件訴因の内容は、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」の概念を前記(a) 、(b) 及び(c) だけに限る主張であり、公訴事実一及び二記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」、すなわち、松野製剤は前記(c) に該当すると主張するのであるから、万一右松野製剤が(c) には該当せず前記(d) に該当するという場合には、もはや被告人らの本件過失責任を追究するものではないとの趣旨の主張であるとは到底考えられないのである。そのことは、検察官が、前記(三)で説示したとおり、原審第五二回公判期日において、松野製剤は、取引界においては一応工業用第二燐酸ソーダの範疇に入るものであつたと考えられる、と釈明している点にも端的に表明せられているというべきである。前記第五の三の2で説示したとおり、検察官は、当初、被告人らの本件業務上注意義務発生の基本的事実の内容をなす薬剤は、「工業用第二燐酸ソーダ」であると主張していたのを、「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」であると訴因の変更をしたのは、公訴事実一及び二掲記の松野製剤を右基本的事実をなす薬剤の概念中に包含せしめるために外ならなかつたのである。元来、松野製剤が、取引上の概念にせよ、「工業用第二燐酸ソーダ」の範疇に確実に入るというのであるならば、毫も訴因変更の手続までする必要はなかつた筈である。

(五) 要するに、前記(一)に記載したとおり、公訴事実冒頭に記載されている「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」というのは、「工業用第二燐酸ソーダとして取引される薬剤もしくは取引された薬剤」のことであり、右薬剤中には前記(a) 、(b) 、(c) 及び(d) を包含していることは明らかであるといわなければならない。すなわち、検察官は、食品製造の業務に従事する被告人らが、原料牛乳に第二燐酸ソーダを添加使用するにあたり、工業用第二燐酸ソーダなどと称せられて取引される薬剤を購入して使用したりしていると、時には右薬剤には前記(b) 、(c) 及び(d) のような薬品もあつて危険であるということを被告人らの業務上注意義務発生の基本事実として、被告人らには規格品発注(使用)及び化学的検査の業務上注意義務があつたと主張しているのであつて、かりに、松野製剤を(c) であると主張しようと(d) であると主張しようと松野製剤が被告人らの業務上注意義務発生の基本事実の埒外に出るものではない。ただ、松野製剤が(c) であるという場合には、実質上工業用第二燐酸ソーダと称し得る(b) 及び(c) には人体に有害な程度の砒素を多量に含有しているから危険であるということであり、もし、松野製剤が(d) であるというときには、人体に有害な程度の砒素を多量に含有する非第二燐酸ソーダである品名不詳の薬品が紛れ込む虞があるため危険であるという点に相違があるに過ぎないのである。

検察官の主張する公訴事実一及び二掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」は、公訴事実冒頭掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」の概念に包摂されるものではあるが、同一用語で表現せられていても、右両者が異なる概念であることは、検察官の主張自体によつて明白であり、したがつて、公訴事実一及び二掲記の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」である松野製剤は、具体的に一定の化学式で表示可能な薬剤であることはいうまでもないことであるが、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引せられた薬剤」を化学式で表示せよと要求するというが如きことは、論理上全く不可能なことを求めることであるといわなければならない。

検察官は、公訴事実一及び二掲記の各薬剤は、協和から本件工場に三回に亘つて納入せられた松野製剤であり、その松野製剤に人体に有害な程度の砒素を多量に含んでいたと主張しているのであるから、検察官が松野製剤を(c) もしくは(d) であると主張したところで、そのために訴因が不特定になるというようなことは毫もないのである。もし、検察官が、被告人らの本件業務上の注意義務が、第二燐酸ソーダを使用すべきでなかつたと主張するのか、規格品使用義務があつたと主張するのか、いずれであるか不明であるような主張をしたり、または、本件事故惹起薬剤が、砒素を多量に含有する松野製剤であると主張するのか、青酸加里を含有する松野製剤以外の他の薬剤であると主張するのか、いずれの主張であるか不明であるような主張をするときに、初めて訴因が特定しないということになるのである。

(六) 原判決によると、原審は、原審の審理終結時までに確定された前記第五の三の3の(一)で説示した内容の訴因に基づき、判決していることが認められるのである。すなわち、原審も、公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」との主張のうちには、前記(a) 、(b) 、(c) 及び(d) のものを包含していることを肯定し、昭和三〇年当時我が国の薬品業界に出廻つていた第二燐酸ソーダという薬剤は、(a) だけに限定され、(b) のように人体に有害な程度の砒素を含有するものはなかつたし、(c) の如きものも存在していなかつたとなし、(d) の存在は考えられないことはないとなしながら、被告人等の規格品発注義務の有無を判断するにあたつては、このようなものの出現を予見することは不可能であつたと判断して、被告人らの規格品発注義務を否定したのであり、また、被告人らの化学的検査義務の有無を判断するにあたつては、(d) の出現も一応予見可能であつたとなしつつ、原判決のいわゆる法律的価値を有する信頼感や過去の実績により、被告人らには化学的検査義務はなかつたと判断していることは原判示の趣旨に照して明らかであるというべきである。

したがつて、当審において、検察官が、松野製剤は特殊物質であり、工業用第二燐酸ソーダの発注に対しては非第二燐酸ソーダの納入される危険性があると主張するのは、原審検察官が訴因として主張していたことを主張しているに過ぎないのであつて、決して当審において初めて主張することではない。原審検察官が、松野製剤は、一応(c) であると主張するが、(c) であることを固執するものではなく、(d) である場合もあり得ると主張し、そのために公訴事実冒頭記載の「工業用第二燐酸ソーダとして取引された薬剤」中には(a) 、(b) 、(c) 及び(d) が包含されると主張していたものであることは、前記説示によつて明らかなところであり、この意味においては、原審検察官が松野製剤の評価を択一的に主張していたことが窺われるが、右公訴事実冒頭記載の薬剤、すなわち、(a) 、(b) 、(c) 及び(d) については、これを択一的に主張しているのではなくて、終始(a) であることもあり(b) であることもあり(c) であることもあり(d) であることもあると並列的に主張しているものであると理解できるのである。検察官が松野製剤の評価を前記の程度に択一的にしたところで、そのことによつて訴因が不特定にならないことはもとよりであり、いわゆる訴因の択一的主張にあたらないことはいうまでもない。

第六結論。

原判決は、前記第二の六の項で説示したとおり、事実を誤認しひいて法令の解釈を誤り、前記第三の七の6の項において説示したとおり、事実を誤認したものであり、さらに、前記第四の六の項において説示したとおり、事実を誤認しひいて法令の解釈を誤つたものであるといわなければならない。

果してそうだとすると、右各事実誤認や法令の解釈を誤つた違法が、判決に影響を及ぼすことが明らかであるか否かの点であるが、原判決は、本件工場の従業員らには何人にも注意義務の違反はなかつたとし、その第二章第五の結論の項において説示しているように、被告人大岡正及び同小山孝雄が、乳児用調整粉乳の製造に関し、どのような地位にあつたかという点については全く判断を示していないことは原判示に徴し明白である。そして、本件工場が乳児用調整粉乳を製造するにあたり、原料牛乳に安定剤として第二燐酸ソーダを添加使用するとき、本件工場の従業員らのうちの何人かに、規格品発注(使用)義務及び化学的検査義務のあつたことはすでに説示したところにより明白であり、記録を精査しても、本件工場の工場長であつた被告人大岡正及び製造課長であつた被告人小山孝雄が、右乳児用調整粉乳の製造及びこれに伴う第二燐酸ソーダの購入及び使用につき全く関係がなかつたという明白な資料はないのであり、したがつて、原判決別表第一及び第二に記載されている数百名の乳児が亜砒酸を多量に含有する本件粉乳(原判決二〇丁表一二行目参照)を飲用したかどうかという点並びに右乳児達がこれを飲用したために死亡したりもしくは傷害を被むるに至つたか否かの点について審理して判断を加えてみたところで、到底被告人ら両名に検察官の主張するような業務上の注意義務違反の事実を認め得べくもない、というような段階にはないのであるから、原判決の前記のような事実誤認及び法令の解釈を誤つた違法は、判決に影響を及ぼすことが明らかであるといわなければならない。

よつて、検察官のその余の論旨に対する判断を省略し、刑訴三九七条一項、三八二条及び三八〇条を適用して原判決を破棄し、同法四〇〇条本文にしたがつて本件を徳島地方裁判所に差戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 加藤謙二 裁判官 木原繁季 裁判官 加藤龍雄)

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